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#2 晩春の肉は舌よりはじまるか 三橋敏夫

 三橋敏夫「真神」(昭和48)所収の句。そうはいっても、この句集を読んいるわけではなくて、孫引きであります、すみません。
 先に謝っておきたいと思います。ここにあげたのは、小生の助平こころのせいかもしれません。お恥ずかしいです。

 昔、新興俳句運動という伝統重視の俳句にして若干ラジカルそうなムーブメントあったらしいとは、俳句作り初心者の自分も知っています。作者はその集団で最年少であった方だそうです。誰が読んでも濃厚に官能的な句であると感じるでしょう。今の時代であればさほど刺激的ともいえないように思いますが、当時はどうだったのでしょう。
 
 さて、永田守弘編「官能小説用語表現辞典」という興味深い辞典があります。自分の手元のは、マガジンハウス(2002)刊ですが、この頃は「ちくま文庫」の一冊として手に取れます。題名からいかがわしいなどと早とちりはなされぬよう、さようあの筑摩書房刊ですから、信用に足る本です。
 この中にあっては、「肉」という語はこの辞典の隅から隅までぎっしりと出現しています。当たり前です。その例語を引いてもよいのですが、人によっては嫌悪される方もおられようから自制します。
 それにしても、その「肉」を扱う表現の多彩さと云ったら、時折覗く度に、感心させられます。官能小説家の皆さんのレトリックから学ぶことはおおいにあろうと思います。

 さて、句に戻ります。
 まず「晩春の肉」というメタファーにまず読み手の自分は躓きました。単純に三春の内の季春の時期を指すわけでないでしょう。「肉」とは、勿論お肉屋さんで売られるものでありません。「肉」とは、生身の身体そのものです。
 そうすると、自分の凡庸な理解力では、力が満ちていた壮年期を過ぎた肉体と、いうような感じでしょうか。でも、具体的に肉体をイメージすることもないように思います。もう盛りを過ぎて、老いの兆しをさえ感じる、多分男の内部にある、くすぶるようにもやもやとある「肉欲」とかと云ったら、・・・・。
 さて、「舌」というのは、肉体の一部です。味覚を感じとる、あるいは、食す、舐める、舐るといったことをする機関です。

 一茶の句です。

紅の舌をまいたるざくろ哉  一茶

 「紅舌こうぜつ」という語があります。「紅の舌」とは、これだと思っていいかも知れません。紅舌とは、紅色した舌です。それで燃え上がっている炎の先端を意味します。また、美人の口元を云うことがあるようです。この一茶の句は、熟れてぱっくりと果実が裂けて、真っ赤な石榴のつぶつぶの実がびっしりと詰まって見えている様子を、美女の口元から覗く真っ赤な舌が見えるようだと云っているのだと、自分は解釈しています。しかも舌は巻くように見えている、そんな妖艶なイメージを石榴にオーバーラップしているのだと思っています。

 「舌」というのは、もしかすると普通に見ることができる身体の部位では、もっとも肉肉しい、内臓が露出したような部位のように見なすことができそうです。
 そういうことで云えば、舌からはじまる晩春の肉体、奇妙な言い方ですが、理屈に合うような気がしてきます。

 以上が今ほど思いついたこの句から連想したことです。ですが、自分のほぼ妄言と云えるこれらの記述は、無意味です。この句の面白みを台無しにしているようです。
 この句は、「はじまるか」で閉じられています。はじまるのだろうかと、いっています。何が、はじまるのか、もう一度、「晩春の肉」とは何かという謎について、読者は立ち返るしかありません。
 それは、実は自分には謎解きできません。
 つまり、ちょっとHな句があったぞと、調子にのった自分は、いい歳して軽薄でした。

三橋敏雄 みつはし-としお
1920-2001 昭和-平成時代の俳人。
大正9年11月8日生まれ。昭和12年渡辺白泉の「風」に参加,新興俳句無季派の新人として注目される。西東三鬼(さいとう-さんき)にもまなび,戦後は「天狼」「面」「俳句評論」同人。61年から「壚坶(ローム)」監修。平成元年「畳の上」で蛇笏(だこつ)賞。平成13年12月1日死去。81歳。東京出身。実践商業卒。句集はほかに「まぼろしの鱶(ふか)」「真神」「しだらでん」など。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

 (付け足し)             

 句集の名の「真神」とは、狼のことです。
 自分も、こんなことを先に書きました。