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#210 草間彌生という生き方【後編】~昼も夜も死に物狂いで戦っている~


みなさんの素晴らしい投稿頻度に比べ、いつも忘れたような頃に次を持ってくる、キレのなさをごめんなさい。

今回は【後編】として、マンチェスターで観た草間彌生氏の生き様のドキュメンタリー『草間彌生∞INFINITY』をもとに、年時ねんじなどを調べて書き足しています。

壮絶な子ども時代


1929年草間彌生は長野県松本市で種苗業を営む裕福な家庭に4人兄弟の末っ子として生まれた。
幼いころから植物が話しかけてくるという幻聴や幻覚があり、絵を描くことはその恐怖からの逃避だったといわれる。

父は女遊びが盛んで、母から父のスパイをさせられ、誰と何をしていたか報告する度に、母の嫉妬の矛先になった子ども時代。
ヒステリックな母は、草間が絵ばかり描いていることを嫌い、彼女の絵具や作品を黙って燃やし、草間に辛く当たったという。
第二次世界大戦時には草間は13歳。パラシュート工場で働かされたが、爆撃におびえながら真っ暗で閉ざされた空間に息をひそめることを強いられた時代を生きている。

続く幻覚や幻聴に悩まされ、そこから逃避するかのように絵を描くことに没頭していった。
十代後半で個展を開いてからも、精力的に作品を発表していくが、草間の描く世界が大衆から理解されたとは言えなかった。

松本時代の最終年、1957年撮影。草間28歳
https://wassho.livedoor.blog/archives/53227511.html


ジョージア・オキーフの影響


日本での草間が最も影響を受けた芸術家が、古本で目にしたジョージア・オキーフ(Georgia O'Keeffe)だった。

ウィキペディア ジョージア・オキーフより


アメリカを代表する女性画家の絵画に心が動いた草間が、英文で手紙をしたためて、自分の作品数枚と共にアメリカのオキーフ宛てに送った。ビデオには草間がタイプして送ったと思われる英文の手紙が出てくるがとても流暢なのだ。あの時代に松本に居た草間があれだけの英文を綴っていたことに正直驚いた。真面目でたいへんな努力家という一面が見て取れる。

この手紙に対し、「アメリカでやってみたら」という手紙がオキーフから届く。
1957年、草間は意を決し、書きためていた数百枚の絵をすべて燃やし、渡米。
草間は振り返る。「もし彼女が私の不器用で無謀な手紙にこれほど親切に返事をしてくれなかったら、私は決してアメリカに行くことができなかったでしょう」
後にオキーフは、ニューヨークで生活に困窮していた草間の援助のために、自身の唯一の画商を紹介したりしている。

ニューヨークで最初に発表したのは無限の網(infinity net)と呼ばれるひたすらに細かい網のようなモチーフ。それは草間が飛行機の窓から見下ろした太平洋からインスパイアされたモチーフだった。山深い松本の人間にとって太平洋は憧れであり、草間の中に大きなインパクトを与えたと言われる。
それから、始まりも終わりも中心もなく、構図もない絵画、無限の網をまるでなにかに憑かれたように発表し続けていった。

white Infinity Nets Kusama's debut solo show in New York at the Brata Gallery in October 1959.

《私はノイローゼにしばしば悩まされた。カンヴァスに向かって網点を描いていると、それが机から床までつづき、やがて自分の身体(からだ)にまで描いてしまう。同じことを、繰り返し、繰り返しすることで、網が無限に拡がる。つまり、そこでは自分を忘れて網の中に囲まれてしまい、手も足も、着ているものまで、部屋中すべてが網で満たされていく。》

(草間彌生『無限の網 ―草間彌生自伝―』新潮文庫)

草間彌生は美しかった。とんでもない才能もあった。なのに彼女の芸術は白人男性社会では正当な評価を受けることがなかった。【中編】参照

幼少時のトラウマと自身が信じる才能が拒絶される絶望から草間は精神を病みながらも芸術に没頭していく。


過激なクサマハプニング


草間自身が第二次世界大戦中の日本で思春期を過ごしていることや、芸術界での女性蔑視を身をもって経験したことが引き金になっていたのだろう‥‥ 二ューヨークでは、男女の性差別、金儲け第一の資本主義やベトナム戦争に対し、反対運動に加わる。街中のさまざまなデモに参加し、体を張って平和を訴えた。

https://wassho.livedoor.blog/archives/53227511.html


草間はまた、古代ギリシャのヌード彫刻ばかりをもてはやす旧弊な美術界に対抗していく。生きている人間のほうが美しいのだと、公共の場に生身のヌードをさらすハプニング・アートを提示した。屋外で裸の男女に水玉のボディペインティング、セックスをテーマにした過激なパフォーマンスやインスタレーションを披露。これらは「クサマハプニング」と称され、注目を集めた。

「餓えや犯罪が戦争につながるように、セックスの抑圧も、人間の本当の姿を押し曲げ、人間を戦争に駆り立てる遠因になっている」

『無限の網 草間彌生自伝』より
「クサマハプニング」と呼ばれたパフォーマンスアート

裸のパファーマーたちと寒そうな観衆とのギャップがシュールだ(笑)

ところが、彼女のこのような奇抜な行動はNY在住の日本人たちから反感を買い、保守的な日本で非難の的となる。「松本の恥だ」と言われた故郷では草間彌生の名は卒業生名簿から除籍されるほどの騒動になっている。

このように社会からのバッシングを受けても、草間は自身の芸術を貫き通した。ものすごくカッコいい。まさに『前衛の女王』の名に恥じることがなかったのだ。

自己消滅(網強迫シリーズ) 1966年


ジョセフ・コーネルの求愛と彼の死

1970年、ニューヨークにて Photos: Courtesy of the Artist/(c) Yayoi Kusama

上は、当時の恋人で、著名な前衛芸術家だったジョセフ・コーネルとの仲睦まじい一枚といわれている。なぜ彼が恋人の首にこんなふうに手をかけているのか、不気味な気のするのは私だけだろうか‥‥

26歳離れたジョゼフ・コーネル(Joseph Cornell)は、木箱の中にさまざまな素材をコラージュした作品で、既に歴史に名を残す芸術家となっていた。自宅に引きこもり神経質で扱いにくい人としても有名だったコーネルだが、草間に夢中になり、毎日手紙を書いてよこしたという。
年齢差もあり、はじめは興味のなかった草間だが、彼の熱心な求愛を受け続け、ふたりは恋人同士に‥‥
ビデオの中で草間自身が回顧する音声が入る。
「庭でふたりでキスをしていたのよ。そしたらそれを見た彼の母親が意地悪して、バケツの水をあたしたちにぶっ掛けたの」
それに対して、
「私に謝るのが普通なのに、あの人はお母さんに『ごめんなさいごめんなさい』って謝ったのよ」
このくだりには唖然としてしまった。とんでもないマザコンなのか、草間を愛しながらも人種差別を容認していたのか‥‥草間はコーネルと一緒で幸せだったのか、釈然としない思いが残った。

そんなコーネルが1972年に急逝。心身のバランスを崩していた時期とも重なり、翌1973年、草間は16年間の渡米生活から帰国した。

忘れ去られた時代と、世界がようやく気づく時

帰国後は、ニューヨークでの活動をスキャンダラスに報道されたことでバッシングに遭い、体調も崩し、日本社会への幻滅とともに辛い日々が続いた。

日本帰国から2年後に草間は自ら、アートセラピーを大切にする精神科病院に入院する。そこでのアクティビティとして始めたコラージュを機に、創作の世界へ没入していく。
以降、50年近くに渡る現在も病室から自身のアトリエに出勤する生活を続けている。
草間の才能は留まるところを知らず、そんな中で詩や小説の執筆も始める。

1989年にニューヨークで回顧展が開催されたことが再評価のきっかけとなって草間の作品がようやく世に認められる。その時まで、彼女は世界から(排除されたかのように)忘れられていたのだ。

2000年以降、文化的功労者として数多く受賞・受章してきた。かつて彼女を除籍した松本市は、2008年に草間を名誉市民に推挙した。
2014年、イギリスで「世界で最も人気のあるアーティスト」に、2016年には『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」で唯一の日本人となり、同年文化勲章を天皇陛下から受章している。
こうして、若き日に家族からも故郷からも見捨てられた草間彌生は、現在『世界で一番成功した存命の芸術家』として日本の宝となった。

時代はやっと草間彌生に追いついたのである。
時代が変わったとは言え海外で生きていると、白人男性社会が脈々と続いてきたことを感じずにはいられない。ましてやあの時代に文字通り『体を張って』戦った草間に対する厳しさはどれだけのものだったろうか‥‥

私は、激しい草間氏を想像していた。
けれど、他のメディアで語る彼女から出る言葉は、とても慈しみに満ちていた‥‥

「私のこどもの頃は戦争があったけど、今も世界でテロや戦争、人間に対するたくさんの憎しみや傷跡が絶えません。私は、芸術の力、愛の力をもって、世界中に平和と愛の素晴らしさを届けたい。だから愛を込めて、一生懸命描くの。もっともっと描き続けます」

『VOGUE JAPAN』2014年のインタビューより


どの時代の草間作品にも共通するのは、愛、平和、生と死、宇宙といった、普遍的なテーマであること。そしてそれぞれの作品がどれも直接的に訴えかける力が強いところだ。

松本市美術館は一見して草間アートの水玉で装飾され、「草間彌生 魂のおきどころ」が常設展示されている。ビデオ内の、学芸員の方の言葉が心に残った。「草間彌生アートに小さなころから身近に触れられる松本の子どもたちはとても恵まれていると思います」

観ていた私は「今ごろかーい!」と思ったけれど、芸術こそが平和への道だとおっしゃる草間氏は、きっと喜んでおられることだろう。

この記事を書くきっかけになったマンチェスター会場のビデオを見つけました。世界最大規模だそうです。観ていただくと規模感が分かります。


もしかしたら私はエキシビジョン会場に居たただひとりの日本人女性だったかもしれない。地球の反対側での今日のこれほどの成功を、彼女はどんな気持ちで受けとめられるのだろうか‥‥
どんな一言を投げかけてくださるのだろうか‥‥


御年おんとし94歳。もっともっと作品を描かなきゃいけないので、100歳でも全然足りないのだそうだ。
彼女を平等に扱わなかった白人男性社会だが、彼らが成し得なかった偉業を草間彌生は今も更新し続ける‥‥
長生きという偉業を。

日本女性万歳~❕


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