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6月は憂鬱に生きる。雨の日の猫は動かないのだから。

6月はこれと言って行事の無い月だ。4月の昇進昇格、新入社員の受け入れ。5月のゴールデンウィーク明けの濃縮された月次業務を駆け抜けた後の、ほっと肩の力が抜ける月。
(4月決算の会社の方には、そんな余裕ねえよと怒られるかもゴメンナサイ)

労働保険の年度更新もあるが、あれは今や、給与ソフトが吐き出してくれたデータに矛盾が無いかをチェックするだけの仕事。大慌てでやるほどの事もない。


つまり6月は、日々のルーチンワークが平たんに続く、サラリーマン人生を象徴するかのような憂鬱な月、だと思う。何と言っても祝日が無いしね。


駐車場での車の乗り降りで湿る、衣類や髪の毛。週末に干したいのに干せずに溜まりがちになる洗濯物。
もう両手の指でも足りなくなったサラリーマン人生で、何度こんな6月を過ごしただろう。こんな灰色の日々があと何年続くんだって、何度煙色のため息をついただろう。


だけど、と最近の私は思う。

6月はこういう物だと思ってしまえば悪くない。どう抗っても憂鬱でテンションの下がりがちな月なら、思う存分憂鬱に浸ればいい。無理してポジティブ気取って気合を入れて、それで感じられる幸せなんてまやかしだ。


しんどい時期には、しんどい時間を過ごせばいいのだ。身体がそれを求めているのだから。無理にテンション上げて走り出すんじゃなく、湿気にしおしおになりながら、たまの晴れ間にほっと息を吐いて、薔薇の美しさや紫陽花に癒されればいい。

*

下がるときと上がるとき。元気な時と元気じゃない時。やる気に満ちている時と、やる気が行方不明な時。どちらも在っていいじゃない。

一日の中でも、一月の中でも、一年の中でも。
人の気分は浮き沈みして、ままならない。
ままならない自分を「あ~仕方がないか」と受け入れられるようになって、ずいぶんと息をするのが楽になった。

そして、思うのだ。

あんなに無理して、ポジティブな存在になりたかったのは何故だろう。
どうしてそれだけが、幸せの証拠だと思っていたんだろう。


きっと、私は誰かに証明したかったんだ。
「私は不幸じゃありません。悲しい事なんかには負けません。いつもやる気に満ちて後ろを向かずに、前だけを見て歩いて行ける強さのある人です」って。

それは裏を返せば、私が私を不幸であると心の底では思っていたという事で。あるいは、それだけ必死に、自分を幸せにしたいと願っていた証でもあるのだな、と。くそ恥ずかしい若かりし日の振り返り。

* *

必死に顔を上げようとしていた当時の私には、この曲を送りたい。

上がる事も下がる事も、浮かぶことも沈むこともあるけれど、人生はその両方があるから楽しいんだって。
しんどい時にしんどいーって寝倒して、笑える時にゲラゲラ笑って、落ち込みたいときはとことん落ち込む。春夏秋冬があるように、晴れと雨があるように、それは自然な事なんだよって。

そんな今日の呟き。
今年の梅雨は、ちゃんとやって来てくれるのだろうか。
梅雨にはちゃんと、梅雨らしいのが良い。




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