濫読の効用

1 読書のスタイル
 今回は読書レビューではなく,読書そのものについて私が考えているところを書いていきたいと思いますが,その中でも「読書の方法」について書いていきたいと思います。
 専門分野について身に着けたいのであれば,同じ分野の書籍について,ある程度分かりやすい入門書を1冊読み,著名な著者の書いた専門書(体系書)を2冊ほど読めば,概要は十分に把握できます。
 例えば,法律の分野でいえば,刑法総論を一通り把握したいと思うのであれば,刑法の入門書(これは何でもいいと思いますが,「伊藤真の刑法入門」あたりでしょうか。山口厚「刑法入門」もありますが,分かりやすいとはいいがたいです。)に,あとは,西田典之「刑法総論」か山口厚「刑法総論」と井田良「講義刑法学総論」あたりを読んでおけば十分でしょう。
 そういう意味で,専門的な知識を取り入れること自体は,その専門書を読めばよいのですから,苦労はするかもしれませんが,難しいことではありません。
 しかし,そこに記載してある内容を超えて,自分なりの問題意識というものを持つためにはどうすればいいのか。
 そこで,私がおすすめするのが「濫読」です。

2 濫読の効用
 濫読とは要するに,いろいろな本を手当たり次第に読んでみる,ということです。
 私は,もちろん好みもあるため偏りはあるのですが,法律学全般に加えて,経済学,行動経済学,行動遺伝学,量子物理学,哲学,歴史,芸術,宗教,病理学,遺伝子学,会計学等,脳科学等基本的に少しでも興味を持てば手に取って読んでみるようにしています。
 そうしていろいろな本に触れてみると,ある分野と別の分野が,実際にはつながっているのではないかと感じる場面が多々出てきます。
 そういうつながりにこそ,今後探求していく価値のある問題意識が隠れていたり,世の中を新たな角度から見る新しい視点になったりするのです。

3 具体的な例
 具体的な例を挙げてみましょう。
(1)資本主義と個人主義(基本的人権の尊重)との関係について
 例えば,経済学や社会学を勉強すれば資本主義という根本的な考え方について触れることができます。これに対して,個人主義ないしは基本的人権の尊重という考え方は,法律学の基礎の基礎といえます。
 この両者,実は同じことを別の角度から述べているに過ぎない,あるいは,車の両輪と表現してよい関係にあるのではないかと思います。
 つまり,資本主義というのは,個々人の自由な経済活動を認めることから成長していく,つまりは,個々人の権利を尊重することと同義です。
 仮にこの見解が正しいとすると,昨今資本主義の問題として挙げられている点が,法律学における個人主義の問題としても検討されなければならないのではないか,との問題意識が生まれます。資本主義を突き詰めた結果,格差社会の問題に行きついているのだから,個人主義として共同体を解体し,純粋な個人の社会に行きついた時にも,同じような問題が生じるのではないか,,,と思いをはせてみることにも,意味があるのではないかと思います。
(2)量子物理学と哲学(決定論)との関係について
 さらに,量子物理学を勉強すると,世の中の根本の部分が確率論に支配されているという非常に面白い世界の見方を身に着けることができます。
 一昔前,ニュートン力学がすべてだった時代には,マクスウェルの悪魔がいれば,世界のすべては予測可能であると考えることができたため,世界のすべては宇宙が誕生した瞬間に決まっている=決定論的なものの考え方を否定できませんでした。
 しかし,アインシュタインが相対性理論を生み出し,さらには量子物理学が生まれた現代においては,少なくとも,ハイゼンベルグの不確定性原理に関する現在の解釈が正しい限り,決定論は否定されるのではないかと思います。つまり,世界の根本は確率的にしか把握できないのだから,そのうちのどれが現在化するかは決まっておらず=非決定論的なものの考え方が前提となります。
 もちろんこれが世界の真理かどうかはわかりませんが,こうしたものの考え方が生まれてくることは自然ではないでしょうか。
(3) 科学哲学と法律学
 これについては非常にマニアックな話になりますが,憲法学において,長谷部教授が「ベースライン論」という考え方を提唱しています。要するには,憲法違反か否かを判断するに際して,法律家共同体が考える「ここがベースラインになる」というところをベースラインにして,それとの逸脱を検討するという考え方です。
 この見解の根本的な問題は,なんで法律家共同体だけを参照するのかの理論的根拠がないという点です。
 さて,憲法とは全く関係ありませんが科学哲学の分野でファイアアーベントという科学者が,要するには科学とは,科学者がそう信じている限りで科学的なのだというようなことを述べています。例えば,科学者が今のところ万有引力は存在していると考えているからこそ万有引力は存在している前提で科学的に考えられているわけですが,明日も万有引力が存在している保証はないわけです。そういう意味で,100%というのは科学の世界にはなく,あくまで帰納的にそうなる可能性が非常に高いと考えられているだけなのです。したがって,科学者が科学と信じているものが科学なのであるという相対的な考え方に行きつくわけです。
 上記,憲法学における長谷部教授のベースライン論は,このファイアアーベントの議論に非常に近いものと考えられるのではないでしょうか。そして,科学の分野でこの考え方が仮に成り立つのであれば,法律学の分野でも同じように成り立つ可能性はあるのではないでしょうか。

4 最後に
 以上,ざっくばらんに濫読の効用を上げてみました。
 皆さんもいろいろな本を読んで,いくつかの本を対比したり,類似点を探したりして見れば,今まで気づかなかった新しい視点や,別の分野同士の共通点を見つけることができ,世界の新しい見方に気付けるかもしれませんよ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?