見出し画像

孤独は毒か (芥#4)

written by 芥田ほこり


▶ 孤独とは何か

孤独という状態について考えてみる。

物理的に身体が他の人たちと離れている場合、たとえばエレベータの中に自分だけ閉じ込められた時には、その人はきっと大いに孤独を感じるだろう。しかし一方で、教室でクラスメイトに囲まれているにも関わらず孤独を感じてしまうような少年もいる。つまり、他人と物理的に大きく隔たっていることは孤独であることの必要十分条件ではない。単に身体が隔離されている状態には、孤立という別の名詞が宛がわれる。
それでは、心の距離が孤独であることの定義に関係しているのだろうか。友達と会話しているはずなのに孤独を感じている少年は、きっと「目の前の相手が自分のことを微塵も理解してくれていない」と思うから孤独を覚えている。エレベータに閉じ込められた孤立者は、外界とアクセスできないという事実から、あるいはその事実から発生する恐怖を誰とも共有できないという事実から孤独を感じ始める。もしもエレベータの中に複数人で閉じ込められたのなら、世界と切り離されたことへの孤独は感じても、エレベータ内での連帯によって完全な孤独は感じずに済むだろう。

つまり、孤独であるという状態は、自分が周りの人間と心的にとても離れている状態を指す言葉に違いない。

▶ 孤独を好む者、嫌う者

Q. 孤独は人間にとって好ましからざる状態か、否か?

実はこの問題の答えはYesかNoの二択ではない。何故なら人によるからだ。あなたが孤独を「負の状態だ」あるいは「負の状態ではないだろう」と捉えることは、先ほどと同様に、孤独がそのような状態であることの必要十分条件ではない。

「いつも誰かと繋がっていたい」と強く思う人がいる一方で「心の底から孤独を愛している」という人も少なからずいる。

僕は後者のタイプの人間であると最近になって気が付いた。いや、本当はもう何年も前から薄々は気が付いていたことだが、今回のコロナウィルスによる全国的な自粛ムードの中で改めてそれに気付かされた。
緊急事態宣言を受けて家の外に出られなくなったことで、僕は一日一冊ずつ本を読む生活を始めた。机に座って本を読み終えるかお尻が痛くなってどうしようもなくなるまでひたすら読書をし続ける。その間、デジタルデトックスの意味も兼ねて意図的に携帯は触らないでおく。従って知り合いとコミュニケーションを取ることもほとんど無くなって、ひたすら一人の世界に没頭した。夜中になると静寂がその場を支配して、世界に自分だけしかいないような感覚を強く覚えたが、別に寂しいとか辛いといった気持ちにはならなかった。むしろ普段よりも居心地が良かったくらいだ。

一方で、本を読み終えて携帯電話を開いてみると、自分とは違った生活をしている人たちが散見された。Instagramのストーリーズでは友達同士が絵しりとりを繋げて楽しんでいる。Twitterでは「リモート飲み会が楽しい!」といった呟きがたくさん並んでいる。そして僕は悟る。みんながひどく繋がりを希求しているのだということに。
これはどちらが良いという話ではない。ただ「一人の方が気が楽で良い」と思わない人がけっこう多いことが僕には少しだけ意外に思えた。普段はあんなに人間関係の軋轢に悩んでいる人がたくさんいるのに、と。

▶ 毒を飲む者を嘲るな

孤独を嫌う者からすれば一人でいることは心をすり減らす時間であり、僕のような孤独至上主義者からすれば一人でいられることは魂を回復させる時間だ。そもそもの孤独に対する見方が根本的に違う。それ故に一つの問題が生じる。

僕は昔から、いや実を言うと今もなのだが、学校では基本的に一人で食事を摂ることが多い。そしてそれを揶揄したり非難したりする声が昔からある。「あんな隅っこで独りで食べてるなんて、どれだけ友達がいない陰キャなんだ」とか「俺たちと食べるのを露骨に避けてるのは感じが悪いぞ」とか。あるいは「大丈夫? 私が一緒に食べてあげようか?」といった声も。
もしかすると心当たりがある人も多いのではないだろうか。これは別に食事に限った話ではない。誘われた飲み会を断って家で一人で過ごしたり、休日に一人旅に出かけるあなたも同じだ。
そう、我々にとって一人でいることは決して毒を飲む作業などではない。だから孤独を毒だと感じている者が他人に対して安易に「毒を飲むなんて正気か?」というスタンスをとってはいけないのだ。
「別に、薬を飲んでるだけだよ。あなたにはこれは毒かもしれないけれど」と言っても通じない人に対して、我々はわざわざ詳細な説明をしたりしない。面倒臭いから、とりあえず毒を飲む道化を演じておく。しかし別にそれが本意というわけではない。むやみに見世物にされるのは誰だって鬱陶しいものだ。

あなたがもし、たとえ善意であれ孤独に過ごす者に対して救いの手を差し伸べているつもりなら、実はその手は余計なちょっかいでしかないのかもしれない、ということは留意しておくべきだろう。

▶ 孤独を愛するという表現は詭弁かもしれない

しかし、孤独を好かない人たちはどうしても小首を傾げざるを得ないだろう。社会的動物である人間が、本当に誰とも群れることなく完全に人との繋がりを無視して生活したがったりするのだろうか、と。

Q. 人間は本当に孤独を愛せるのか?

太宰治の言葉に次のようなものがある。

本を読まないということは、そのひとが孤独でないといふ証拠である。

いかにも『人間失格』を書いた人間の口から出そうな台詞だと僕は思う。感性が特殊過ぎて、最後まで誰からも理解されなかったが故に彼は強い孤独を感じ、自分に人間失格の烙印を貼って自害した。そんな彼はどうして本ばかり読んでいたのだろう? それはもちろん作家だからなのだが、それ以上に僕は、孤独に耐えられなかったからなのではないかという風に思えてならない。

そういったら「孤独が好きだからこそ本の虫になるのでは?」と考える人もいるかもしれない。だが逆だ。

本を読むことは世界を知ることであり、多様な価値観に触れることだ。感性が周囲の人と違っていることで孤独ばかりを感じていた太宰にとってしてみれば、自分と似た考え方をする誰か他の人を探して安心したかったことだろう。だからこそ自分にとって拠り所となりうる本を渉猟していたのだろう。彼の感性は他人より特殊だったかもしれないが、仲間意識を持ちたいという部分に限って言えば、皮肉なことに彼はものすごく人間らしかったのだ。

そこまで考えて、ふと思う。僕もまた本を読むことで作者との対話を楽しんでいるではないか。何が孤独至上主義者だ、と。
たぶん僕が好まないのは、単に直接的な会話によるコミュニケーションなのであって、人と心を通わせること自体はもしかするとそんなに嫌いではないのかもしれない。そんな風にも思えてくる。インターネットを介してのやりとりや文章を書く・読むといった一方通行のやりとりならば、直接的な対話で生じるような軋轢は起こらない。だから好んでやる。親友とのお喋りだってそうだ。親友と呼べるひとはほとんどいないけれど、本当にものすごく仲が良い相手とは、全く忌憚なく会話する僕だ。
そう、見方を変えてやれば僕は断じて孤独至上主義者などではなかったのだ。

▶ お酒と孤独の関係性

人生において一人で過ごすプライベートな時間をどれだけ確保したいかという希望は人によって異なる。それはまさしく、人によってどれだけアルコールが許容できるのかが異なるように。

お酒を嗜むことと孤独を嗜むことは非常によく似ている。

お酒を分解することで得られるアセトアルデヒドは、明らかに人間にとって有毒だ。しかし、酒は百薬の長とも言う。とはいえこれには「適量であれば」という注釈が付く。何事も度を超えるのは宜しくない。飲み過ぎれば誰にとってもそれは毒物たりうる。
孤独も同じで、誰だって日常生活に少しくらい自分ひとりだけの瞬間が欲しいと思うものだろう。だが別にそんなには要らない。大抵の者は孤独に対して下戸なのだ。しかし、ときたま酒豪がいる。いや、独豪と言うべきか。彼らにとって日常的に一人で過ごすことは、ただ孤独を喫飲していることに他ならない。下戸からしてみればその姿は毒を飲む道化のように見えるのかもしれないが……。

つまり全ては程度の問題なのだろう。
無限にお酒を飲み続けられる人がいないように、無限に孤独のみを味わい続けられる人なんてきっといない。そういう意味では「孤独を愛する孤独至上主義者」など実は存在しないのだろう。けれども人類には、アセトアルデヒドもといアイソレイテッドを全く受け付けない体質の人ばかりがいるわけではなくて、僕みたいにほんのちょっとだけ人よりも孤独耐性があって、それ故に孤独中毒に陥りかけているような人種もいるわけだ。とはいえ、僕らにだって素面で過ごす時間は必要だ。孤独が好きとか嫌いとかいうのは、ただ本当にそれだけの違いなのである。

Q. あなたの孤独に対する耐性と依存性はどれくらいのものだろうか?

▶ おまけ:コミュニケーションの種類

一般にコミュニケーション能力といえば「どれだけ人としっかり話せるか」を指す言葉だ。しかし、ここでいうコミュニケーションというのは対人コミュニケーションを前提としている。wikipediaに書かれたコミュニケーションという言葉の定義を確認してみよう。

コミュニケーション(英: communication)とは、
・社会生活を営む人間の間で行われる知覚・感情・思考の伝達。
・(生物学)動物個体間での、身振りや音声・匂い等による情報の伝達。

何らかの情報の伝達であることは確かだが、その手段は必ずしも会話に限定されない。たとえばSNSによる文字でのやりとりや言葉を交わさない目配せもこれに含まれる。さらに言えば、一方通行ではあるものの本を読む行為も作者から読者へのコミュニケーションである。もちろん、反対にあなたが何かの文章を作文しているなら、それは自分から相手へのコミュニケーションになる。

「コミュ力が無くて困っている」という人がいる。だが、僕が知る限りコミュ力が無いことを自称している人の中で本当にコミュ力を欠如している人はほとんどいない。
もしあなたが、たとえ全員ではないにせよSNS上で誰か1人以上の友達と気軽にやりとりすることができるのであれば、あなたのコミュニケーション力それ自体に問題は無い。自分の気持ちを正しく伝え、相手の意図を正しく汲み取る。それができているのだから。もっといえば、文字情報のみを用いた表現というのは目で語ったり相手の顔色を窺ったりできる対人でのやりとりよりも情報が少ないわけで、チャット上で誤解を招かない表現ができるのなら通常よりも高度な技術を保有していると言える。

それではどうして我々が対人ではなかなか上手く喋れなくなるのかというと、媒体の差異・コミュニケーションの速度・ノイズによる意識の散漫・会話に求められる固有の能力などが原因に挙げれられる。
「媒体の差異」というのは、文字を読み取って文字で返すか、言葉を聞き取って言葉で返すかの違いを言う。単純に聞き取ることや発声することに苦手意識があると会話そのものが苦痛になりがちである(僕は昔、発声そのものに大きな抵抗があった)。
「コミュニケーションの速度」というのは、会話に求められるスピード感のことだ。会話というのはすぐに返事をしないといけない。LINEのように文面をじっくり考えて10分後に返信するというようなことはできない。つまりコミュニケーションにおける頭の使い方が違うわけで、慣れないと対応はなかなか難しい。特に、早口で喋る人のペースに合わせてこちらも喋るのは本当に骨が折れる。
「ノイズによる意識の散漫」は、情報過多によって会話そのものに集中できない現象を指す。先ほど、目線や表情というインフォメーションがコミュニケーションの補助になるという話をしたが、そもそも語られるテキストだけで相手の意図が汲める人からすれば、目線や表情は余分な情報でしかない。それに惑わされてしまうのだ。
「会話に求められる固有の能力」というのは、目線や表情の読み取りもそうなのだが、何より声のトーンを聞き取るという能力のことだ。明らかに皮肉を込めた口調で「すごいですね」と言われたところで、普段SNS上でばかりやりとりをしていてはそのトーンが何を意味するかは掴めない。

こういった問題に対応するには、やはり実践を通して慣れていくしか手は無い。しかし、初めから「自分にはコミュ力が無いのだ」と思って会話に挑むよりも「単に会話という形式に慣れていないだけのことだ」と思って喋る方がずっと気は楽だろう。対人コミュニケーション力を鍛える場合には、是非このことを念頭に置いて練習していただきたい。

ちなみに、チャットのような方式でもコミュニケーションが全くできないという人は、まずは読書に励んでみてほしい。作家のような言葉のプロによって書かれたきちんとした文章を繰り返し読めば、伝わりやすい表現で伝えられるようになるし、掴みにくい表現でも掴めるようにもなる。
とはいえやはり、文語と口語では全然勝手が違うため最終的には生身の人たちとの会話練習が求められるかもしれないが、繰り返すように、読書さえできれば後は慣れの問題である。