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[月記]23年11月 自殺

死んでしまった後のように、じっと自殺について思いを巡らしている。

殺人と呼ばれる行為の中で、特に殺害対象が自分である場合に限ってそれは自殺と呼称される。自殺でない殺人においてその行為に対する責任は必ず自らに返ってくるが、自殺の場合はその行為によって自らを全ての責任から解放してくれる。自殺は殺人に包含されながらも、殺人とはもっとも遠い場所にある。

ある少年が自殺をしたとする。誰かに唆されたのではなく、文字通り自決をしたとする。このとき、周りの人々は少年の死を悼む。だが、自殺を選んだ少年にとってそれは間違いなくある種の救いだったはずだ。そうでなければ自殺などしないからだ。
それならば周りの人々は少年の死を喜ぶべきなのだろうか? 少年は自殺を通して不幸ではなくなったと。悲しいことがあるとすれば少年とはもう会えないことだが、少年自身が不幸ではなくなった、相対的には少年が幸せになったと考えるなら、それは祝福されるべきことであると。

少年のした行為が自殺ではなく就職や結婚であったなら、少年が幸せになったときっと誰もが素直に喜ぶ。実際にはしばしばより多くの苦痛や責任を背負う行為にも関わらず、だ。
就職や結婚は自殺とは何が違うのか? 結局、周囲の人々が少年に期待しているのは「ひたむきに生きる」という指向性であって、自殺によってそのベクトルが失われるときに人々は嘆き悲しむのかもしれない。

その残忍さたるや、如何。自殺する者たちはきっと彼らのそういう浅はかさに嫌気が差しているに違いない。そうでなければとっくに誰かに救われて、首を吊ることなんて考えなくなっている。そうならなかったからこそ彼らは一足先に死んでいく。このとき、彼らの自殺には少なからず他者に対するパフォーマンスの側面もあるのではないだろうか。

自分が死んでみせれば、周りの心を強く揺さぶることができる。恐らくは生きていた頃に自らが放ったどんな言葉よりも強い一撃で。周囲の無関心に対する報復として、絶対に無関心ではいられないような出来事を自らの命と引き換えに勃発させる。
自殺にはそういう魔力があって、だからこそ "魔" が差してくるのではないか。

鶴見済の『完全自殺マニュアル』曰く、もっとも痛みを伴う死に方は焼死だという。故に焼身自殺は政治的あるいは倫理的な主張によく利用される。だが、生きている者には焼け爛れていく者の痛みを真の意味で痛感することはできないので、彼らのメッセージが伝わるのだとすると、その成功要因は人型が炎を纏うビジュアルの凄まじさなのかもしれない。

飛び込みが選ばれるのも同じ理屈なのかもしれない。生きている者の生活そのものに介入しそのルーティーンをかき乱すことができるから、飛び込みにはインパクトがある。死にゆく自分と生き続ける自分以外を心の中で対比させている自殺者が、しめやかに練炭自殺で逝こうとすることはきっと無いだろう。練炭はあまりに文学者向きだからだ。

じっと自殺について思いを巡らしているとき、ちょっとだけ生きた心地がする。