真夜中の世迷言
こんばんは。こちらではお久しぶりな水野春です。
久しぶりの記事も例によってそんな明るい話でもないので、期待してくれていた人がもしいたらごめんなさいね。
本当は寝たほうがいいんだけど、ライブを控えてこんな気持ちを抱えたままではどうにもと思ったので、書き殴ります。
私は、私自身の命について軽々しく死ぬとか何とかいう癖に、
誰かの訃報にめっぽう弱い。
もう、びっくりするくらい弱い。
(だから、自分の身近にいる人は冗談抜きで3,000年くらい生きてくれと思うし、誰よりも先に死にたいとまで思う。)
だから、そういうニュースがあると深度はともかくも気持ちが沈んでしまって、そういう状況で日々を過ごすことになるわけだ。
そういうときに何を感じているのか。
まず、私にとって偉大だった方が亡くなったとしても、社会は何もなかったかのように進むし、私は仕事だし、足を止めることは許されないのだということ。
なんなら身内の死ですらたった数日間で折り合いをつけて先に進めないといけない、ということ。
しかもその数日間というのは向き合うための時間じゃないわけだ。
それを実感するたびに、
ああ、そんなものか、と思う。
資本主義っていうのは(というと色々な人に怒られそうだけど)、経済を回すことが何より大事なのか、みたいな。そんな不貞腐れた気持ちになる。
やや話がずれるけれども、
コロナ禍についても同じことを思っていて。
経済の歯車のなかでずっとずっと囚われて、ずっとその一部であることしかできないなと思っていた。これだけ世の中が騒いでいるというのに。
周りの様子と自分自身の実情がもう全然違ってて、正直ずっと、緩やかなしんどさを抱えていました。
まあ、そういうことを思って日々生きているわけで。
それに加えてもうひとつ。
有名な人の死というのは、それそのものが消費の対象になってしまうんだなということ。
こんなnote書いている時点で同じ穴の狢な気がして、そんな自分がすごくすごく嫌でもあるんだけど、とにかくまあそういうこと。
色々な形で消費されていくのを目の当たりにしながらじゃ、悲しいなーとちゃんと思うことだって満足にできなくて、向き合えなくて、抱えたもやもやは大きくなっていくばかりなわけです。
言葉を選ばずに言えば、
死というのはある意味イベントで、
憶測も想像も好き勝手できちゃうわけだし、やっぱりゴシップとしては都合がいいってことなのかな、とか思う。
でも私は私で、道徳ないしは倫理ちゃんと勉強してきて、それなりに身にしているわけで、その考えからすると死っていうのはそういう扱いをしていいものじゃない、って、そんなこと自明だったはずなんだけどな。
そろそろ寝ないとほんとにおかしくなるので、この辺で筆を置きます。
ちょっとだけだけど整理できました。
もし読んでいる人がいたらありがとう。ごめんね。色々抱えながら私は今日も生きていきます。それでは、おやすみなさい。
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