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連載日本史165 開国(3)

安政の五ヶ国条約の締結に伴い、開港された五港を窓口に欧米諸国との貿易が始まった。特に横浜は新たな貿易の中心地となり、各地の農村で生産された生糸が日本からの主要な輸出品となった。貿易の相手国は英国がトップシェアを占め、安価な綿糸や綿織物・毛織物などが大量に輸入された。輸出需要に生産が追いつかず、国内では品不足による物価高騰が起こった。十年足らずの間に、卸売物価は六倍以上、米価は約十倍まで値上がりしたという。

幕末のハイパーインフレ(ameblo.jpより)

条約や貿易品目の不均衡に加えて金銀の交換比率の内外差も大きな問題であった。日本の金銀比価は1:5であるのに対し国際相場でのそれは1:15であり、外国人は両替を繰り返すだけで時価の三倍の金を入手できたことになる。大量の金の国外流出を食い止めるため、幕府は1860年に金量を三分の一に減らした万延小判を発行して金銀比価を是正したが、それは貨幣価値の低下による更なる物価高騰をもたらすことになったのである。

幕末の金流出(econet.ne.jpより)

十九世紀ドイツの経済学者リストは当時の経済学の主流であったイギリス自由貿易論に対抗して保護主義を唱えた。経済社会の発展段階はそれそれの国や地域によって異なるため、それに応じた保護政策を行っていかなければ、生産の現場そのものが損なわれてしまうと主張したのである。自由貿易主義が世界に先駆けて産業革命を成し遂げたイギリスの論理だとすれば、保護貿易主義は遅れて国際市場に参入したドイツの立場からの反駁であったと言えるだろう。そしてリストが危惧した初期資本主義の自由貿易を巡る問題が、まさに当時の日本でも起こっていたのだ。

咸臨丸(Wikipediaより)

1860年に日米修好通商条約批准のための遣米使節に同行した幕府の軍艦咸臨丸は、勝海舟を艦長とし、日本人初の太平洋横断を敢行した。この船には福沢諭吉らも同乗しており、米国での見聞はその後の明治維新の際にも大きく役立った。一方で、国内では貿易の開始に伴う急激な物価高もあって幕政への反発が一層強まり、攘夷を唱える志士たちは更に過激化した。人々の恨みは当然のことながら、安政の大獄の首魁である井伊直弼に向けられることになる。同年三月、江戸城桜田門外にて、水戸藩を脱藩した過激浪士たちが、井伊大老を乗せた駕籠めがけて襲いかかった。桜田門外の変である。

桜田門外の変(Wikipediaより)

雪の夜だった。浪士のひとりが直弼の駕籠めがけてピストルを撃ち込み、後続の浪士たちが次々に刃を駕籠に突き立てた。瀕死の直弼は、最後には駕籠から引きずり出されて斬首されたという。凶刃に倒れた直弼の血潮が、春の雪を赤く染めた。彦根藩の部屋住みの身分から、藩主を経て、国政の最高権力者まで上り詰めた「花の生涯」の凄惨な幕切れであった。

彦根藩主時代の直弼は、民への情に厚い名君として慕われていたという。泰平の世であれば穏やかな一生を全うすることもできただろうが、時代がそれを許さなかった。大政奉還までわずか七年余り、桜田門外の銃声は、倒幕に向かう急転直下の転回を告げる号砲でもあった。

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