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トマトと楽土と小日本 ~賢治・莞爾・湛山の遺したもの~①

2021年に石橋湛山平和賞を受賞した論文を再掲します。昨年は石橋湛山没後50年にあたり、各方面で湛山の業績や見識が改めて見直された年でした。同時代に生きた宮沢賢治・石原莞爾と対比しながら、時代とともに湛山の足跡を考察した論文です。長いので何回かに分けて連載します。おつきあい頂ければ幸いです。
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――世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない――
               (宮沢賢治「農民芸術概論綱要」より)

童話作家として、教育者として、あるいは詩人として、故郷の花巻を拠点に多面的な創作活動を行った宮沢賢治には農村改革者としての一面もあった。農学校の教師の職を得ながら、「ほんとうの百姓となる」と宣言し、教職を辞して自ら農業の現場に身を投じた賢治。その根底には、「人のために何かを為さねばならない」という強い使命感が垣間見える。そんな彼の精神的支柱となった日蓮の思想は、賢治とは全くベクトルは異なるものの、やはり強烈な使命感に衝き動かされて満州事変を引き起こした軍人・石原莞爾の内にも脈々と息づくものであった。そしてもうひとり、軍国主義・植民地主義への傾倒を強める当時の日本において、莞爾とは真逆の満州放棄論を堂々と論じた石橋湛山もまた、日蓮宗の法主を実父に持つ法華経信者であった。賢治と莞爾と湛山――。同時代において全く異なる道を歩んだ三名の足跡を辿りながら、彼らが目指したものは何だったのか、彼らの共通点と相違点は何か、そして現代に生きる私たちが彼らから何を学び取ることができるのかを考えてみたい。

まずは三名のなかで最年長であり、かつ最も長命であった石橋湛山(1884-1973)の足跡を駆け足で辿ってみよう。1884年(明治17年)、杉田湛誓・石橋きん夫妻の長男として東京で生を享けた湛山は、翌年に父が郷里の山梨県南巨摩郡にある昌福寺の住職となったため、母と共に甲府市へと転居する。さらに10歳の時、父が静岡の日蓮宗本山である本覚寺の住職に転じたのを契機として、山梨県中巨摩郡の長遠寺住職であった望月日顕に預けられ、中学卒業まで8年にわたってその薫陶を受けた。実父の湛誓は後に日蓮宗総本山久遠寺法主・日布となり、少年期の育ての父である日顕も日布の二代後の法主となっている。少年時代の略歴だけを見ても、日蓮の思想が湛山の人格形成に大きな影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。

早稲田大学卒業後、東京毎日新聞の記者を経験し、兵役を経て東洋経済新報社に入社した湛山は、1910年代から20年代にかけての大正デモクラシーを背景に、リベラリストとして多岐にわたる旺盛な言論活動を展開する。軍国・専制・国家主義から成る「大日本主義」に対して、産業・自由・個人主義を柱とする「小日本主義」を提唱し、第一次大戦では日本軍の青島占領や中国への21ヵ条要求を鋭く批判した三浦銕太郎主幹の路線を継承して東洋経済新報主幹となった湛山は、植民地の全面放棄を主張するに至った。1919年、日本の植民地下にあった朝鮮の民衆の間に広がった三・一独立運動に際して、湛山は彼らの独立自治の要求に理解を示し、日本の植民地支配自体に問題の根があるのだと断じたのである。

『朝鮮人も一民族である。彼らは彼らの特殊なる言語をもって居る。多年彼らの独立の歴史をもって居る。衷心から日本の属国たるを喜ぶ鮮人はおそらく一人もなかろう。故に鮮人は結局その独立を回復するまで、我が統治に対して反抗を継続するは勿論、しかも鮮人の知識の発達、自覚の増進に比例して、その反抗はいよいよ列強を加うるに相違ない。』(1919年5月 東洋経済新報社説「鮮人暴動に対する理解」)

当時の日本の大新聞をはじめとするほとんどのメディアが、三・一独立運動を「不逞鮮人の暴動」として鎮圧に乗り出した日本政府と朝鮮総督府に同調する中で、湛山の独立運動擁護論は孤高の光を放っている。半世紀に及ぶ抑圧的な植民地支配の傷跡が現在の日韓関係に多大な軋轢を生んでいることを鑑みると、湛山の透徹した洞察力と、世の大勢に屈しない強靭な発信力に、改めて脱帽の念を抱かざるを得ない。

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