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連載日本史154 大御所時代(1)

老中松平定信の失脚後は、十一代将軍徳川家斉が直接政務にあたった。家斉は将軍を退いた後も大御所として実権を握り続けたので、定信失脚後の1793年から家斉死去までの1841年までを大御所時代と呼ぶ。寛政の改革への反動もあって、全般に規律の緩んだ放漫な統治が行われ、貧富の格差は拡大し、賄賂が横行し、財政は再び破綻に向かった。

徳川家斉(Wikipediaより)

家斉が政務を執った文化・文政時代は、欄熟した町人文化が花開いた時代である。貨幣経済はますます発展し、農村では商品作物の栽培に加えて、地主や問屋商人が農家に原料や器具の前貸を行う問屋制家内工業が発達し、さらにそれが作業場(工場)に奉公人たちを集めて分業・協業によって効率的に生産を行う工場制手工業(マニュファクチュア)へと移行しつつあった。つまり、政治的には旧態依然の封建制のままで、経済的には初期資本主義が広がりつつある状況になっていたと考えられる。

大御所時代の政治(「世界の歴史まっぷ」より)

農村における貧富の拡大に伴う無宿人の増加と治安の悪化に対して、幕府は関東取締出役を設置し、各地の農村で結成させた寄場組合をその管理下に置くことで治安維持を図った。こうしたシステムが必要となったのは、農村の生産活動からあぶれた浮遊層が博徒と化し、ギャンブル中心の裏社会が形成されつつあったという社会事情が背景にある。博徒の親分の中には、上州一帯を縄張りとした国定忠治や、遠州一帯を版図とした清水次郎長など、広域にわたる政治力を持った実力者もいた。彼らは時には政権と反目し、時には協調しながら、アウトローの世界をまとめあげていった。

清水次郎長(コトバンクより)

外交面においては、家斉政権は徹底した事なかれ主義をとった。1804年、ロシア使節のレザノフが、かつて幕府がラクスマンに与えた入港許可証を携えて長崎に来航した。目的はもちろん通商要求である。対応に苦慮した幕府は、レザノフを半年も長崎で待たせた挙句、鎖国は我が国の国是であるとして要求を拒絶、幕府の対応の非礼に激怒したレザノフは、1806年から1807年にかけて、部下に択捉島と樺太南部の松前藩施設を攻撃させた。いわゆる露寇事件である。日本の守備隊はロシア軍艦に全く歯が立たずに敗走し、幕府は慌てて東北各藩に命じて北方の防備を固める羽目になった。たまたまレザノフ一行の勝手な軍事行動がロシア本国で問題視されて首謀者たちが投獄され、レザノフも病死したため、ロシアが本格的に日本に戦争を仕掛けるような騒ぎにはならずにすんだが、一触即発の事態であったことは確かである。

18世紀末~19世紀前半の外交関連事件(wako226.exblog.jpより)

そもそもヨーロッパで近代化が進み、各国が海外領土の拡張に乗り出しつつあるというのは、庶民はともかく、幕府の有力者であれば、オランダを通じて、ある程度は把握し得ていた情報のはずである。しかし、幕府は見て見ぬふりを決め込んだ。1808年にはイギリスの軍艦フェートン号が長崎に侵入、1811年にはロシア軍艦長ゴローニンが国後島に上陸して逮捕され、ロシア側が報復措置として淡路の商人の高田屋嘉兵衛を抑留、嘉兵衛の尽力もあって双方の釈放が実現し、何とか事なきを得た。1824年にはイギリスの捕鯨船員が常陸の大津浜に上陸し、薪水や食料を要求、翌年には幕府は改めて異国船打払令を出し、とりあえず異国船は追い払えという乱暴きわまりない方針を明文化している。とにかく出て行ってくれ、日本に近寄るなの一点張り。それ以外に策が考えつかなかったのであろうか。それとも当時の世界情勢を見据えた上で、あえてガラパゴス化を貫くのが国益にかなうと大局的に判断した結果なのか。後者だとすれば、たいしたものだが…。

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