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連載中国史24 唐(1)

618年に長安を占領して唐を建国した李淵(高祖)は均田制に基づく中央集権政治の確立を急いだ。626年、二代目皇帝となった李世民(太宗)は、高句麗遠征には失敗したものの、北方の東突厥を服属させ、内政においては律令体制を整えた。律は刑法、令は行政法を指し、さらにそれらの施行細則等を定めた格・式を加えた法体系は、日本をはじめ周辺諸国にも大きな影響を与えた。太宗はまた、律令に基づいた官僚組織を整備し、中央には中書・門下・尚書の三省と吏・戸・礼・兵・刑・工の六部を設置し、地方には約350の州の下に1500以上の県を置いた。また、洛陽・長安・太原の三府に加え、辺境には都護府をおいて防衛体制を整えた。租庸調制・府兵制・科挙制等の隋王朝以来の政策も発展継承した。彼の築いた行政機構は世界帝国としての唐を支える屋台骨となり、太宗の治世は後世の人々によって理想化され、「貞観の治」と呼ばれた。

唐の中央官制(「世界の歴史まっぷ」より)

隋と唐の政治体制を比べてみると、そのビジョン自体にさほどの違いがあったとは思えないのだが、隋は短命に終わり、唐は三百年にわたる世界帝国の地位を保った。ここには隋の煬帝と唐の太宗、すなわち二代目皇帝の資質と能力のさが如実に表れているように感じられる。実は二人は遠い親戚にあたり、個人としての能力の傑出した高さには共通する点が多かったという。煬帝は大運河建設、太宗は律令体制確立と、後の中国の政治経済の礎を築いた点も似ているし、高句麗遠征に失敗した点も同じだ。それが一方は残虐無比の暴君とみなされ、一方は泰平の治世を創出した明君と称賛されている。これはひとえに、聴く耳を持っていたか否かの違いであると思われるのだ。

唐の太宗(Wikipediaより)

太宗と臣下の政治問答をまとめた「貞観政要」において、太宗は臣下を厳しく指導しながらも、筋の通った進言や諫言を積極的に受け入れている。こうした真摯な姿勢が、同書を帝王学の教科書たらしめた所以であろう。他方、煬帝は自らの才を誇り、反対勢力には極刑を以て臨み、恐怖政治で人々を抑え込んだという。この違いが隋と唐の明暗を分けたのだとすれば、つくづく政治とは「人」なのだなと思うのである。

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