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連載日本史224 大正・昭和初期の文化(1)

大正・昭和初期の文化の特徴は、デモクラシー思想や社会運動の広がりにより、市民文化・大衆文化が形成された点にある。新聞・ラジオ放送の普及や多様な雑誌・週刊誌・文庫本などの創刊も大衆文化の発展を促した。また、義務教育の徹底と中等学校生徒数の急増を受けて、1918年には高等学校令と大学令が制定され、高等教育機関が拡充された。1918年の鈴木三重吉による児童雑誌「赤い鳥」創刊を契機に、児童文学や童謡の新しい流れが生まれ、小学校での自由教育運動や生活綴方運動、自由画教育運動など、児童の個性や自発性を尊重する新教育への動きも活性化した。

「赤い鳥」創刊号(Wikipediaより)

江戸時代には推定で約3000万人であった日本の人口は、昭和初期には6000万人に達している。約60年で倍増したわけだ。特に第一次大戦後には、工業化と都市化の進展を受けて、都市部への人口集中が顕著になった。鉄筋コンクリートのビル、和洋折衷の文化住宅、ガスや水道や電灯の普及、鉄道路線の拡充、自動車・バスの出現など、生活様式も徐々に都市化し、工場労働者や俸給生活者(サラリーマン)が増え、バスガール(車掌)や電話交換手などの職業婦人の姿も目立つようになった。スポーツや映画・演劇、洋食なども一般化し、都市生活は大きく変化したが、農村の改革は進まず、急増した人口を支える経済の基礎は脆弱さを抱えていた。

大正時代のモガ(モダンガール)のファッション

自然科学の分野では、野口英世による黄熱病の研究、本多幸太郎によるKS磁石鋼の発明、八木秀次の超短波アンテナの発明など優れた研究が相次いだ。1917年には半官半民の理化学研究所が設立され、後に数百種に及ぶ特許・実用新案を擁する理研コンツェルンを形成するまでに成長している。

大正時代の人文・社会科学(「世界の歴史まっぷ」より)

人文科学では西田幾多郎が「善の研究」を著して独自の哲学体系を構築し、津田左右吉が日本古代史の科学的研究を行い、和辻哲郎が「風土」で日本文化論を展開し、柳田国男が「遠野物語」で日本民俗学を確立するなど、各分野での独創的な研究が進んだ。またロシア革命の影響もあって「貧乏物語」を著した河上肇や日本の資本主義の発達史を研究した野呂栄太郎などマルクス主義の立場をとる経済学者も増えた。一方で「日本改造法案大綱」を著して国家改造を提唱した北一輝など独自の立場からの社会変革思想も現れた。

カール・マルクス(dic.nicovideo.jpより)

当時の日本の知識人層に大きな影響を与えたマルクス主義とは、歴史は物質的生活条件によって形成されるという唯物史観に立脚し、資本主義をブルジョアジー(資本家)とプロレタリアート(労働者)の対立としてとらえ、階級闘争によって社会主義を実現していくべきだとする理論である。カール・マルクスが分析の対象としたのは19世紀ヨーロッパの産業革命期の資本主義だが、時代や風土による多少の違いこそあれ、彼が活写した資本主義社会の矛盾は20世紀初頭の日本の状況にも十分に当てはまるものであっただろうし、現代においてもなお、その基本的な社会構造の分析には説得力がある。ソ連を中心とした社会主義陣営の崩壊により、マルクス主義は社会変革理論としては力を失ったが、経済学の理論としては、現代日本の社会問題を把握する上でも、有効なツールのひとつだと思われるのだ。

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