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連載中国史58 中華人民共和国(3)

毛沢東の死と四人組の失脚によって復活した鄧小平は、改革・開放経済政策を推進し、社会主義市場経済という理論的には矛盾した形態での経済発展を図った。彼の有名な言葉に「白い猫でも黒い猫でも、ネズミをとる猫は良い猫だ」という比喩がある。イデオロギーにとらわれず実利を追求する彼の政策は、急速な経済発展をもたらす一方で、政治的には共産党の一党独裁を固定化した。1978年に四つの現代化(農業・工業・国防・科学技術)を掲げた中国政府は、翌年には深圳・厦門などの四都市を経済特区に指定して市場経済化を促進。同年には米国との国交も正常化し、国際貿易市場に積極的に参入した。1985年には人民公社の解体が終了し、少なくとも経済面では毛沢東の敷いたレールは取り払われ、中国は新たな時代へと踏み出したのである。

改革・開放政策以降の中国の経済発展(内閣府HPより)

しかしながら共産党の一党独裁体制は、経済が発展するにつれて、むしろ強化されていった。1980年代後半、ソ連ではゴルバチョフ書記長によるペレストロイカが進み、東欧の社会主義体制は次々と崩壊を迎えていたが、鄧小平は中国国民の民主化要求には決して応じなかった。1987年、民主化運動に理解を示してきた胡耀邦総書記が鄧小平との対立を経て辞任に追い込まれた。胡耀邦は趙紫陽とともに改革・開放路線を支えてきた指導者であったが、そんな彼らをもってしても鄧小平の強硬な姿勢を崩すことはできなかったのである。

民主化を求める天安門広場のデモ(アムネスティインターナショナルHPよりあ9

1989年、胡耀邦の死を追悼するために集まった人々の集会が、民主化を求める大規模なデモへと発展する。5月に北京で行われたデモには十万人もの学生や市民が参加し、天安門広場を埋め尽くした。鄧小平を中心とする共産党長老派はデモの鎮圧に向けて強硬策を主張し、北京には戒厳令が出された。間に入った趙紫陽も失脚させられ、緊張が高まる。そして、デモの鎮圧に向けて当局がとった行動は世界を震撼させるほどに常軌を逸したものだった。

天安門事件(読売新聞オンラインより)

6月4日、天安門広場の民衆たちに向けて、人民解放軍が突然発砲した。天安門事件の勃発である。戦車が出動し、無差別発砲によって多くの学生や市民が犠牲となった。デモ隊からも抵抗があり、鎮圧にあたった兵士たちにも死傷者が出た。天安門広場は流血の惨事に阿鼻叫喚の騒ぎとなった。辛うじて難を逃れた民主化運動の指導者の多くは海外への亡命を余儀なくされ、国内にとどまった者たちは逮捕・投獄されたり、当局の厳しい監視の下で軟禁状態に置かれた。2010年にノーベル平和賞を受けた劉暁波氏もそのひとりである。結局、彼は授賞式にも出席できないまま、2017年に獄中で死亡した。

獄中で死去した劉暁波死(BBCより)

事件の直後から、中国政府は厳しい報道統制を敷き、事件を単なる暴動の鎮圧として矮小化し、外国メディアによって世界に流れた惨事の映像を捏造だと言い張った。国内での批判を決して許さず、国際社会からの批判に対しても、事件そのものの存在を否定しようとしたのである。その姿勢は今もなお続いている。中国において、インターネットで「6月4日」「天安門事件」を検索しようとすると接続不可能になるという。裏を返せば、それだけ中国政府が、事件に対して後ろめたい思いを引きずっていることの証左でもあるだろう。「人民解放」の名を冠した軍を使って自国民を虐殺した指導者たちの過ちを認めず、徹底して臭いものには蓋をしようとする姿勢は、その後どれほど経済成長を遂げようとも許されることではないはずだ。

ネズミをとる猫は良い猫だ。――確かにそうかもしれない。しかし、たとえ有能であっても、同胞に牙を剝いて噛み殺しておきながら知らぬ顔を決めこんでいる猫は、果たして良い猫だと言えるだろうか? 激動の権力闘争を生き抜き、天安門事件の6年後に92歳で世を去った鄧小平に、あの世で聞いてみたいものである。

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