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連載日本史102 室町文化(3)

北山文化において特筆すべきは、能楽の大成である。この時期に観阿弥・世阿弥が出て、農耕芸能としての田楽や、寺社を中心とした猿楽、民間芸能の今様や曲舞(くせまい)などを統合した能楽を広めた。奈良には興福寺を本所とした大和四座が置かれ、将軍義満の庇護を受けた世阿弥は「風姿花伝」を著し、「秘すれば花」という名フレーズで能楽の奥義を示した。「芸術はバクハツだ!」の岡本太郎ではないが、優れた芸術家にはおしなべてコピーライターの才能があるようだ。

風姿花伝(www.asahi.comより)

十五世紀も後半に入り、八代将軍義政の時代になると、北山文化に比べてやや地味な、簡潔さと精神性を重んじる東山文化が成立する。代表建築はもちろん慈照寺銀閣である。金閣が寝殿造・和様・禅宗様の建築様式をミックスした全面金箔の三層ゴージャス仕様であるのに対して、銀閣は簡素な書院造の二層建築で、外観もきわめて地味である。当初は銀箔を施すつもりだったらしいが、幕府の財政難によって見送られたという。しかしそれが結果的に銀閣の個性を際立たせることになった。

慈照寺銀閣(WIkipediaより)

庭園では竜安寺の石庭や大徳寺の大仙院庭園など、石や砂を山や川に見立てた枯山水(かれさんすい)という手法が流行した。水墨画では雪舟がモノトーンの世界を極め、大和絵では土佐光信や狩野正信が出て、それぞれ土佐派・狩野派の祖となった。茶道では村田珠光が侘茶(わびちゃ)の精神を強調し、茶と禅の一体化を唱えた。いずれも前代に比べて質素な精神性重視の傾向が見て取れる。

龍安寺石庭(龍安寺HPより)

庶民の文化が発展したのも、室町時代の特徴である。惣村での祭礼・寄合、盆踊りの普及、町衆の祭礼などが広く普及した。阿波踊りや祇園祭の山鉾巡礼も、この時代に始まっている。当初は将軍や公家の保護を受けた職能集団が演じていた能や狂言も、時代が下るにつれて、武家や農民などの間で幅広く演じられるようになっていった。庶民の小唄を集めた「閑吟集」も、この時期に成立している。

京都祇園祭(「祇園祭礼図屏風」より)

連歌の世界も次第に庶民化した。十五世紀末に連歌師の宗祇らが吟じた「水無瀬三吟百韻」や、準勅撰集の「新撰菟玖波集」などでは芸術性が重視されていたが、十六世紀に成立した「犬菟玖波集」では、滑稽や機知を旨とした俳諧連歌が集成され、後世の俳句へとつながっていった。文学では「御伽草子」を通して、「一寸法師」や「浦島太郎」など、現代にも残る昔話の数々が生み出された。

御伽草子(京都大学HPより)

一方、公家や貴族は旧来の文化を保持することに、自らのアイデンティティを見出していた。南北朝期には既に後醍醐天皇が「建武年中行事」を著し、宮中の有職故実を整理していたが、室町後期には一条兼良が「公事根源」で、それらの起源や変遷をまとめた。兼良は「花鳥有情」で「源氏物語」の注釈も行っている。貴族隆盛の時代であった奈良・平安時代の伝統を守っていくことは、彼ら自身の存在意義を示す行為でもあったのだろう。






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