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連載日本史257 55年体制

自由民主党を中心とした「保守」勢力が政権を握り、社会党を中心とした「革新」勢力が政権への批判勢力として一定の議席を確保するという55年体制は、その後30年以上にわたって、日本政治の基本構図となった。自由党の吉田茂内閣に代わって、日本民主党総裁として首相に就任した鳩山一郎は、自由党との合同後には自由民主党初代総裁となり、日ソ共同宣言によるソ連との国交回復や国際連合への加盟を実現した。経済復興も順調に進み、1956年の経済白書には、「もはや戦後ではない」と記された。鳩山首相の退陣後は、戦前から反戦・反軍拡・反帝国主義を貫いてきたリベラリストの石橋湛山が首相となり国民の期待を集めたが、病気のため2ヶ月で退陣に至った。後継として首相の座に就いたのは、A級戦犯から公職に復帰し、「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介である。 

石橋湛山と岸信介(webronza.asahi.comより)

自民党が主に資本家や企業経営者・農業経営者を支持基盤としたのに対し、社会党は労組を主な支持基盤とした。GHQが主導して結成を促進した総評(日本労働組合総評議会)は、次第に社会党支持を鮮明にし、労使対決が政治上の対立に連動する傾向が強まった。1957年には全国の教職員への管理強化のために導入された勤務評定に対する反対運動が日教組(日本教職員組合)を中心に盛り上がった。翌年には警察官職務執行法(警職法)の改定に対して、社会党・総評を中心とした警職法改悪反対国民会議が結成された。こうした対決の構図が、50年代末の激しい安保闘争へとつながっていったのである。

日教組の勤評闘争(www.zenshin.orgより)

外交面では、サンフランシスコ平和条約に準じてアジア諸国への賠償が行われ、ビルマ・フィリピン・インドネシア・ベトナムに対して賠償金が支払われた。一方、台湾の中華民国政府は日華平和条約で賠償請求を放棄した。また、賠償が行われなかった国々に対しても、無償の経済援助などの形で支援が行われ、戦争によって損なわれた国際関係も徐々に修復していった。とはいえ、戦争の残した傷跡は深く、感情的なしこりは長く残ることとなった。

55年体制(blog.smartsenkyo.comより)

55年体制の基本構図は保守と革新の対立であるが、日本の政治における「保守」と「革新」は一般的な定義からは少々ねじれた意味合いを持っている。通常、「保守」とは現体制を守ろうとする勢力を指し、「革新」とは現体制を変革しようとする勢力を指すはずだが、55年体制の日本では「保守」の自民党が改憲を目指し、「革新」の社会党・共産党が護憲に回るという形になった。自民党が改憲を掲げたのは、現憲法が米国から押しつけられたものであるので改めて自主憲法を制定すべきだという理屈に基づくものだが、そう言いながらも実際の政策は圧倒的に米国よりであったわけで、逆に政府の米国頼みを批判する革新勢力が憲法を守ろうとする、いわば二重のねじれが起こっていたのである。ただ、そうした自己矛盾を抱えていたからこそ、55年体制は安定して存続したのだとも言える。ここに政治の難しさがある。論理的な整合性と政治的な安定性は別物なのだ。

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