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連載日本史137 幕政の安定(3)

1709年、綱吉が死去し、家宣が六代将軍となった。柳沢吉保は隠居し、間部詮房が側用人となり、更に将軍侍講として新井白石が任命された。同年には生類憐みの令が廃止され、三年後には勘定吟味役の荻原重秀が罷免された。すなわち白石は家宣の補佐として綱吉政治の軌道修正を図ったのである。

新井白石像(Wikipediaより)

家宣は将軍就任後三年で死去したが、白石は七代将軍家継の時代にも補佐役にとどまり、改革を続けた。いわゆる正徳の治である。経済政策では貨幣の改鋳を行い、良質の金貨である正徳金銀を発行し、インフレを抑えた。一方、1715年には海舶互市新例(長崎新令)を発令し、中国・オランダ貿易の制限を行っている。背景には長崎貿易における金銀の大量流出という問題があった。貿易赤字を抑え、財政の引き締めを図ったのである。

江戸時代の改革一覧(tekibo.netより)

儒学者でもあり、秩序を重んじた白石は、儀式・装束・官位の整備も行った。外交では朝鮮通信使の待遇を簡素化し、ここでも支出の抑制を図っている。また、国書の中で「日本国大君」であった将軍の呼称を「日本国王」と改めた。その後、吉宗の時代に呼称は再び「大君」に戻されたが、同様の事例は室町時代の勘合貿易の時代にも起こっている。天皇と将軍の二重権力構造は、対外的にも説明が難しいものであったことが見てとれるのだ。

閑院宮家略系図(history.kaisetsuvoice.comより)

白石は朝廷と幕府の融和にも心を砕き、皇位継承におけるリスクを減らすために、中御門天皇の弟である直仁親王を立て、閑院宮家の創設に尽力した。これは後世に功を奏し、他の宮家の血統が途絶えた後も、閑院宮家の皇統が残った結果、現在の天皇家にまでつながっている。

折たく柴の記(コトバンクより)

文人でもあった白石は、屋久島に上陸して逮捕されたイタリア人宣教師シドッチを直接尋問して得られた西洋の知識をもとに「西洋紀聞」「采覧異言」を著し、随筆「折たく柴の記」を残した。1716年、家継が死去すると、八代将軍となった吉宗によって、白石と詮房は罷免される。白石の改革は儒学の理想にとらわれるあまり、現実との乖離が大きいという負の評価を受けたようだ。しかし、先代までの高度成長期における拡大路線に対して、低成長時代に対応した財政緊縮の必要性を提示した功績は大きい。現実に即した本格的な幕政改革は次代の吉宗の手腕に委ねられたが、白石の示した方向性自体は、間違いではなかったと思われるのである。


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