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連載日本史179 明治維新(3)

版籍奉還から二年後の1871年、廃藩置県が行われた。全国261の藩が3府302県に置き換えられ、さらに四ヶ月後には3府72県に統合されたのである。同時に中央政府の官制改革が行われ、太政官の権限が拡充された。版籍奉還で知藩事に任命されていた旧藩主は東京への移住を命じられ、各県には中央から荒田に県令が任命された。廃藩置県に先立ち、薩長土三藩は天皇の軍隊としての親兵を編成しており、改革は強大な軍事力を背景に推進された。各藩の藩兵も東北・東京・大阪・鎮西の四鎮台に統合改組され、中央統制の下で日本陸軍の原型が出来上がった。

廃藩置県(コトバンクより)

廃藩置県は近代日本最大の行政改革であった。単に藩が県に置き換わっただけではない。新政府の大蔵大輔を務めた大隈重信は、軍事・財政・司法・教育における「全国一致之政体」の確立を建議し、廃藩置県もその流れに沿って断行された。すなわち、各地の領主がそれぞれの所領を支配するという従来の土地制度の在り方が根本的に変革されたのである。これだけの大改革であるから、当然、反発は予想された。政府は旧藩主の東京移住に際して厚遇をもって懐柔するとともに、各藩の家臣については士族の身分を保障しながら武装解除を進めた。また、公家や大名は華族と呼称されるようになった。これらは段階的に身分制度を撤廃していくための布石でもあり、それは武士階級だけが軍事を担うのではなく、全ての国民が天皇の軍隊の兵卒となり得る徴兵制導入に向けての布石でもあった。

明治初期の人口構成

廃藩置県と同年に解放令が出され、従来の穢多・非人の身分が廃止された。翌年に施行された戸籍法によって作成された壬申戸籍では、国民は華族・士族・平民に再分類された。当時の日本の人口は約3300万人、そのうち93.5%が平民であって、士族は5.5%にすぎない。しかし旧支配階級である士族への支給金は国家予算の四分の一を占めており、大きな財政負担となっていた。すなわち、もはや無用の長物となった士族階級のリストラは、国家財政の面からも急務であり、徴兵制を敷いて国民軍を創設するための財源を確保するためにも、士族の秩禄処分は迅速に進められるべき必要があった。戦争は武士階級に任せておけばよいという時代は過ぎ去り、強力な国民軍を早急に整備しなければ欧米列強と互角にわたりあうことはできないという危機感が政府中枢にはあった。四民平等は近代社会建設の基本理念ではあったが、その背景に国民皆兵による富国強兵政策の推進という軍事的要請も存在していたのだ。

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