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連載中国史16 漢(2)

紀元前141年に即位した武帝は、郡県制を全国に施行して中央集権を徹底させるとともに、官吏登用にあたって郷挙里選を導入し、各地から有能な人材を推挙させて内政の充実を図った。漢の行政機構は概ね秦の制度を踏襲したもので、中央では皇帝の下に丞相・御史大夫・大尉の三公を置き、それぞれに行政・監察・軍事を担当させた。地方では長官としての太守(県令)、副官としての丞、軍事担当としての尉が、いずれも中央から派遣されて統治にあたった。すなわち、有能な人材をいったん中央に集め、改めて各地方に派遣するという形で、広大な中国全土にピラミッド型の官僚組織を樹立したのである。

漢の武帝(Wikipediaより)

武帝は、董仲舒(とうちゅじょ)の献策により、五経博士を設置して、儒教を官学とした。縦の秩序を重んじる儒教的価値観が、漢の統治体制を支える思想としてふさわしいとの判断からであろう。厳格な法家思想に基づいて焚書坑儒で儒学を厳しく弾圧した秦王朝とは対照的である。

秦と漢の最大版図の比較(japaneseclass.jpより)

一方で、充実した国力を背景に、武帝は対外的には強硬姿勢をとった。北は匈奴、南は南越、東は衛氏朝鮮をそれぞれ討伐し、武力で支配領域を拡大したのだ。紀元前139年には張騫(ちょうけん)を中央アジアの大月氏に派遣して匈奴の挟撃を図り、衛青・霍去病(かくきょへい)をして匈奴を討伐せしめ、河西回廊に敦煌軍などの四郡を設置した。南越の征服地には南海郡などの九郡を、朝鮮の征服地には楽浪郡などの四郡を設置した。しかし、度重なる外征によって財政は悪化し、塩・鉄・酒の専売や均輸法・平準法などの財政安定策を導入したものの、解決には至らなかった。いつの世でも、戦争は高くつくものなのだ。

司馬遷(Wikipediaより)

前99年、匈奴との戦いで敵の捕虜となった李陵を弁護した大史令の司馬遷は武帝の怒りを買い、宮刑(性器を切り落とす刑罰)に処せられた。彼はその屈辱に耐え、不朽の歴史書である「史記」を完成させた。今日の我々が始皇帝や項羽や劉邦の人となりを知り得るのも、紀伝体によって記述された「史記」の素晴らしい人物描写があってのことである。「史記」の叙述は歴史書の模範とされ、後代の正史の著述方式にも引き継がれていった。

史記(Wikipediaより)

満月は次の夜には欠け始める。漢の全盛期を謳歌した武帝の治世は、その拡大政策の行き過ぎにによって、足元から揺らぎ始めていた。武帝の死後、地方では豪族が台頭し、中央では皇后や皇妃の縁者である外戚の横暴が目立ち始めた。紀元8年、外戚のひとりである王莽(おうもう)によって皇位が簒奪され、漢王朝は中断の憂き目をみる。それは勢いに任せた膨張政策と内政の腐敗の帰結であった。

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