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連載中国史39 明(1)

1368年、明を建国した朱元璋は太祖洪武帝として即位し都を応天府(金陵・南京)に置いた。洪武帝は唐代以来の官僚組織の中枢であった中書省とその長官である宰相(丞相)を廃止し、六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)を皇帝の直属とした。徹底した君主独裁制を目指したわけである。元号においては一世一元の制を採用し、皇帝の時間支配の象徴とした。地方行政では里甲制によって農村の治安維持と徴税の安定を図り、軍事面では衛所制による兵農一致政策を採り、土地台帳である魚鱗図冊と戸籍台帳である賦役黄冊を作成して管理体制を強化した。さらに六諭と呼ばれる民衆教化のための教訓を作成し、儒教的価値観と封建道徳の浸透に努めた。

明の政治体制(「世界の歴史まっぷ」より)

もともと猜疑心が強く、残忍な一面を持っていた洪武帝は、老いるに従って秘密警察を使った恐怖政治を行うようになった。スパイに命じて建国の功臣たちに無実の罪を着せ、次々と粛清したのである。何万人もの人が犠牲になった。知識人や有能な官吏たちも標的となったため事なかれ主義が蔓延し、隋唐以来の上級官吏登用試験である科挙のレベルも大きく低下したという。

洪武帝(y-history.netより)

洪武帝の死後、建文帝(恵帝)が即位すると、北部で燕王朱棣(しゅてい)が反乱を起こした。反乱に際して彼は「君側の奸を廃して難を靖(やす)んず」と述べたため、これを靖難の役と呼ぶ。北平(北京)を本拠地として1399年に挙兵した朱棣は、三年後には首都南京を攻略して帝位を奪い、成祖永楽帝として即位した。

永楽帝(Wikipediaより)

洪武帝の独裁恐怖政治は、自身の子孫への確実な帝位継承と一門の地位の安定を図ったものであったが、結果的にそれが強い反発を呼び、帝位の簒奪につながったことになる。極端な残忍さによる恐怖で人々を抑圧する政治は、結局は長続きしないということなのだろう。にもかかわらず、権力の交代による粛清が現代においても後を絶たないのは、どうしようもない人間の性なのかもしれない。

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