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連載中国史55 中華民国(5)

1937年7月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争は、なし崩し的に中国全土に拡大し泥沼化した。日本軍は11月の上海占領に続いて、12月には国民政府の首都である南京を制圧。その際に多数の捕虜や民間人を虐殺した。南京虐殺の犠牲者数には諸説あって正確な数はわからないが、暴行・略奪があったのは事実であり、中国国内の反日感情の激化のみならず、国際的な批判も高まった。蒋介石政府は南京を脱して重慶に退き、日本への抵抗を継続。日本は国民政府との和平交渉を打ち切り、重慶をはじめ、中国各地への無差別爆撃を行った。

日中戦争関係地図(gakuen.gifu-net.ed.jpより)

1939年、ソ連・満州国境でのノモンハン事件でソ連軍に大敗した日本軍は南進政策に重点を移した。同年、欧州で第二次世界大戦が勃発。翌年には親日派の汪兆銘を首班とする日本の傀儡政権が南京に樹立され、重慶と南京に二つの国民政府が並び立った。しかし南京政府は中国民衆の支持を得られず、戦争はますます泥沼化する。日本は日独伊三国同盟を結んで枢軸国側、蒋介石政府は米英と結んで連合国側についた。1941年、日本軍の真珠湾奇襲とマレー半島上陸により、大戦の戦火は太平洋にまで及んだ。日本は南京政府や満州国も含めたアジア全体の自立と共存共栄を図る大東亜共栄圏構想を打ち出したが、自らの侵略行為の正当化という側面が強く、やはり広い支持は得られなかった。

第二次世界大戦関係図(キッズマングローブより)

米軍の圧倒的な軍事力と、中国をはじめとするアジア各地での根強い抵抗に押され、日本軍は次第に後退した。1945年、ソ連軍の満州侵攻と米国による広島・長崎への原爆投下を経て、日本はポツダム宣言を受諾し降伏した。それは同時に、中国にとって国共内戦の再開を意味していた。当初は国民党が圧倒的に優勢で、1947年には共産党の本拠地である延安を陥落させたが、共産党はソ連の後ろ盾を得て東北地方に拠点を移し、反撃に出た。翌年、毛沢東率いる人民解放軍は国民党軍に連勝を重ね、1949年には北京・南京を次々と占領。国民党は広州・重慶へと逃れて抵抗を続けたが、同年10月には毛沢東が北京で中華人民共和国の建国を宣言。国民政府首脳は台湾に逃れ、翌年、蒋介石は台北で中華民国の存続を宣言。大陸には共産党の中華人民共和国、台湾には国民党の中華民国、ふたつの中国が並び立つ時代が到来したのである。

国共内戦関係図(okkeより)

日清戦争から辛亥革命を経て終戦に至るまでの50年余りの中国の混乱には、日本が深く関わっている。それは古代より千年以上にわたって培ってきた隣国としての関係を大きく損なうものであった。変法自強運動に関わった梁啓超、文学革命の中心となった魯迅、中華民国初代大総統の孫文、国民党軍を率いた蒋介石らは、いずれも日本での留学や活動の経験を持つ知日家であった。泥沼の戦争に陥る前に、外交を通じて関係改善を図る手は幾らでもあっただろうに、日本は無謀な軍事行動を重ね、自ら墓穴を掘っていったのだ。この反省は、後世の日中関係に生かされていると信じたいし、今後も忘れてはならない歴史の教訓であろう。
 

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