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連載日本史113 戦国時代(4)

戦国大名には下剋上によって成り上がった武将が多い。美濃の守護であった土岐氏を排して領主となった斎藤道三は、油売りから身を起こした典型的な下剋上大名であった。尾張の織田氏と越前の朝倉氏は守護の斯波氏を追い落として領主になっているし、近江の浅井氏も国人から身を起こし、守護の京極氏を追放して実権を握った。故・司馬遼太郎氏の「国盗り物語」では、斎藤道三と織田信長を主人公に、こうした下剋上によるダイナミックな権力交代を鮮やかに描いている。

齊藤道三像(コトバンクより)

戦国大名たちは、領地経営の要として、各地に城下町を築いた。越前の朝倉孝景は一乗谷に城下町を築き、武家や町屋などの居住区を設けて家臣の集住を進めた。1471年に彼の定めた朝倉孝景条々は、分国法の先駆けとなった。一国一城の主という言葉があるように、城は大名たちの力を誇示する重要なアイコンだったのである。

一乗谷城下町屏風(朝倉氏遺跡博物館HPより)

中国・四国・九州にも、下剋上の風潮が波及した。周防では守護大名の大内氏が守護代の陶(すえ)晴賢に、出雲では同じく守護大名の京極氏が守護代の尼子氏にとってかわられ、さらに両国とも国人出身の毛利元就(もとなり)によって奪われた。四国では、土佐の国人であった長宗我部(ちょうそかべ)元親が四国全土を制した。九州では、肥前の国人であった竜造寺隆信が守護の少弐氏を追い落とし、一時は島津・大友氏と九州を三分したが、彼の戦死によって、家臣の鍋島直茂が領主となった。一方で、キリシタン大名として有名な豊後の大友宗麟のように、鎌倉時代以来の守護の地位を受け継ぎ、時勢の変化に柔軟に対応しながら、安定した領国経営を保った大名もいる。

1570年頃の戦国大名版図(Wikipediaより)

京都でも下剋上は続いた。細川家の執事だった三好長慶は、主君の晴元と十三代将軍義輝を追放して権力を握ったが、家宰(かさい)の松永久秀に実権を奪われた。下剋上の連鎖である。いつ寝首を掻かれるかわからない。こうした混乱の中で、安定した中央政権への希求が生まれ、各地の戦乱はやがて全国統一の盟主の座を巡る戦いへと収斂していくのである。




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