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連載中国史15 漢(1)

劉邦が高祖となって建国した漢は、秦の郡県制と秦以前の封建制をミックスした郡国制を敷いた。すなわち、首都の長安を中心とした直轄地では中央集権の郡県制を通して統制を強める一方、建国に協力した諸将や功臣に対しては地方に封土を与えて懐柔したわけだ。それはいかにも劉邦らしい妥協の産物であった。

郡県制と郡国制(japaneseclass.jpより)

そもそも諸侯が秦の打倒に協力したのは、始皇帝の性急な中央統制への強い反発があったからこそである。だが、広大な中国をまとめ上げるには強力な官僚制が有効だということは、劉邦を中心とした漢の首脳部は十分に理解していたはずだ。急いては事をし損じる。秦と同じ轍を踏むことなく、創設まもない漢王朝を安定させるためには、各方面への妥協と懐柔は必要不可欠であった。

紀元前2世紀ごろの匈奴軍勢力圏(「世界史情報局」より)

紀元前200年、冒頓単于(ぼくとつぜんう)率いる匈奴軍との戦いに敗れた劉邦は、対外的にも妥協策をとった。匈奴を兄、漢を弟として、毎年貢ぎ物を送る条約を結び、対立を回避したのである。国内では農民への減税を実施し、民衆の慰撫に腐心した。これも農民反乱をきっかけとして滅亡に至った秦の先例をまのあたりにしたからであろう。

漢の高祖(劉邦)(Wikipediaより)

秦の性急な政策を是正しながらも、漢の政策の方向性は秦とほとんど同じだった。ただ、そのスピードを緩めただけである。実際、劉邦は晩年には諸侯の勢力削減に力を注ぎ、次世代の皇帝への漸進的な権力集中を図った。五代文帝・六代景帝の時代には、その傾向は更に強まり、前154年の呉楚七国の乱を平定してからは、実質的に郡県制が全国実施されることとなった。つまり、始皇帝が一代で成し遂げようとしたことを、六代かけて少しずつ実現していったわけである。

急激な変化には強く反発する人も、緩慢な変化ならば案外たやすく受け入れるものだ。トップリーダーとしての劉邦の何よりの長所は、自分一人でやろうとせずに、周囲の人々や、まだ見ぬ次世代の人々の手を借りてでも、ゆっくりと物事を進めていこうとする懐の広さであろう。それは自己の能力の限界を冷静に自覚していたからこそ持ち得た資質だと言ってもいい。牛の歩みも千里。劉邦の死後50年以上を経た七代武帝の時代に、漢王朝は全盛期を迎えることになるのである。

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