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連載日本史228 昭和恐慌(3)

浜口内閣の経済政策における最大の課題は金本位制への復帰、すなわち金輸出解禁の実現であった。もともと日本は日清戦争後の1997年に金本位制を採用し、国際的な通貨信用の拠り所としていたのだが、第一次大戦中に欧米諸国が金輸出を停止したことを受けて金本位制から離脱していた。戦後、欧米諸国は次々と金本位制に復帰したが、日本は戦後不況や関東大震災、金融恐慌の影響などで経済が安定せず、禁輸出解禁になかなか踏み切れなかった。そのため、外国為替市場での日本円の価値は安定せず、乱高下を繰り返し、貿易にも支障が生じていたのである。

金本位制のメリット・デメリット(jugyo-jh.comより)

浜口内閣の蔵相に就任した井上準之助は難しい選択を迫られていた。選択肢は三つ。日本が金輸出を禁止した1917年以前の法定の円為替相場(旧平価)で金輸出を解禁するか、1928年時点での平均為替相場(新平価)で解禁するか、それともこのまま何もせずに様子を見るかである。旧平価では相対的に円高となり輸入には有利だが輸出には不利だ。新平価では逆に円安になるため、輸入には不利で輸出には有利となる。経済学者の石橋湛山や高橋亀吉らは新平価での解禁を主張し、浜口と井上は、この機に日本経済の構造改革を図ろうとし、財政緊縮のデフレ政策をとり、産業合理化を促進して国際競争力を高める方向で、1930年1月、旧平価による金解禁を断行した。現代で言えばスペインやギリシャがユーロの通貨基準に合わせるために、自国の財政を極端に切り詰めて合理化を図るようなものである。

旧平価解禁論と新平価解禁論(「山川 詳説日本史図録」より)

しかし、1929年10月に米国ウォール街の株価暴落で始まった恐慌は翌年には全世界に波及し、日本経済を直撃した。財政緊縮と金解禁による輸出減で打撃を受けていた日本経済は、世界恐慌の煽りを受けて、更に深刻な恐慌状態に陥った。正貨としての金は大量に海外に流出し、企業の倒産が相次ぎ、産業合理化のための賃金引き下げや人員整理によって失業者が増大した。浜口内閣は1931年には重要産業統制法を制定して恐慌の沈静化を図ったが、これが後の統制経済への道を開くことになる。

恐慌下の物価(s-yoshida7.my.coocan.jpより)

一方、農村でも1930年の豊作を機に農作物の価格が暴落するという豊作飢饉が起こった。豊作なのに飢饉とは矛盾しているようだが、背景には朝鮮での産米増殖計画や台湾での米の増産による植民地米の移入促進があった。本来は国内農業の改革が優先されるべきであったのだが、そちらには手をつけずに食料供給を専ら植民地に押し付けてきたツケが回ってきたのだと言える。加えて米国の恐慌による消費縮小で生糸の輸出需要が激減し、養蚕農家も大打撃を被った。恐慌で大量の失業者が都市部から帰村したところで、翌年には東北・北海道が凶作に陥った。豊作でも飢饉、凶作でも飢饉である。特に地主支配の強い東北地方では小作農の状況は惨憺たるもので、娘の身売りが相次いだという。

浜口内閣の政策(「世界の歴史まっぷ」より)

経済政策は難しい。浜口・井上ラインの基本的な考え方は間違っていなかったと思うのだが、とにかくタイミングが悪すぎた。少なくともウォール街の株価大暴落が起こった時点で、しばらく様子を見るべきではあった。だが、彼らだけの責任でもないだろう。金解禁にせよ、農村の構造改革にせよ、本来はもっと前にやっておかねばならなかったことを先送りにしてきたツケが彼らの世代に回ってきたわけで、いわば巡り合わせの不運とも言える。翻って現代の日本の経済政策を眺めてみると、未来世代にツケを回すような先送り政策が横行しているような気がするのだが、大丈夫だろうか。

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