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連載中国史12 秦(2)

紀元前210年、始皇帝が死んだ。巡幸中の出来事であった。この時、始皇帝の有力な後継者と目されていた長男の扶蘇は蒙恬将軍とともに北方におり、始皇帝のそばにいたのは末子の胡亥と宰相の李斯、それに宦官の趙高のみであった。これが秦にとっての悲劇の源となった。趙高は始皇帝の死を秘して胡亥と李斯を自らの陰謀に引き込み、詔勅を偽造して扶蘇を自害へと追い込み、蒙恬を獄に入れてしまった。自らの意のままになる暗愚な胡亥を二世皇帝の座につけることに成功した趙高は、宰相の李斯をも謀殺し、権勢をほしいままにしたが、無論そのような統治が長続きするはずもない。秦に滅ぼされた恨みを抱く各国の末裔たちや、圧政に苦しむ民衆たちが、各地で反乱の火の手を上げた。

陳勝・呉広の乱(「世界の歴史まっぷ」より)

始皇帝の死の翌年、貧農の陳勝と呉広が起こした反乱は、一気に中国全土に広がった。陳勝の残した「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉には戦国時代の下剋上の風潮が残っていたことが見てとれる。陳勝と呉広はまもなく殺されたが反乱は更に拡大し、やがてそれは楚の武将の血をひく項梁・項羽と、沛(はい)の農村出身の劉邦の二大勢力へと収斂していく。この期に及んでも、二世皇帝の胡亥には危機感がなく、豪奢な宮殿で遊び呆けていた。胡亥を見限った趙高は、彼を暗殺し、人望のあった子嬰を帝位につけるが、時すでに遅く、反乱軍は咸陽の目前にまで迫っていた。子嬰は趙高を粛清し、立て直しを図ったが、何もかもが遅すぎた。紀元前206年、建国からわずか15年で、秦王朝は滅亡を迎えるのである。

皇帝を頂点とした秦の官僚制(「グシャの世界史探究授業」より)

広大な中国を統一するにあたって、自らを頂点とするピラミッド型の強固な国家組織を作り上げた始皇帝であったが、その強固な構造こそが生まれ立ての秦帝国の最大の弱点となった。頂点からのトップダウンで全てが動くというシステムでは、頂点さえ奪えば全ては思いのままになるという危険な思考が生まれる。男としての機能を失った宦官の趙高にとってみれば、始皇帝の死によって自らの手に転がり込んだ皇帝の印璽は、性欲のかわりに肥大した権力欲を満たすための格好の道具であったことだろう。緻密に組み上げられたピラミッドは頂点が腐れば全体が一気に腐敗する。そして反乱軍から見れば、その頂点さえ奪えば自らが中華全土を統べる王となるという構図が明確に意識されることになる。秦王朝なき後、中国のトップを奪うのは誰か? ここに項羽と劉邦の両雄による、中国全土の覇権をかけた戦いが始まった。

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