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連載中国史11 秦(1)

紀元前221年、秦の中華統一に伴い、郡県制や官僚制など、秦の敷いていた中央集権型の法治国家体制が中国全土へと広まった。さらに始皇帝は、暦や度量衡、文字や貨幣や車幅(馬車の車輪の幅)の統一を行った。いわば秦の基準が、中国全体のチャイナ・スタンダードとなったのだ。ちなみに英語のチャイナ(china)の語源はシナ、すなわち秦(しん)の音韻変化に由来するという。チャイナ=秦=中国。王朝名としての秦は、中国そのものを表す言葉となって後世に残ったのである。

貨幣・度量衡・文字の統一(山川「詳説世界史研究」より)

秦の中央統制は、思想の面にまで及んだ。法家思想を国の基盤とする秦は、儒学を中心とした他の思想を弾圧、焚書坑儒、すなわち書物の没収・焼却や儒者への弾圧を断行した。文字の統一によって中国全土への命令の円滑な浸透を実現した始皇帝と李斯は、文字や書物の持つ力が自らへの脅威にもなり得ることを肌で感じていたのかもしれない。危険思想と目された儒者たちは数百人単位で生き埋めにされ、思想家たちにとっては受難の時代となった。

焚書坑儒(「世界の歴史まっぷ」より)

始皇帝は、対外面では、北方遊牧民族である匈奴に対抗するために、燕や趙が築いた北辺の長城を連結して万里の長城を築いた。周辺異民族への対応は歴代の中国王朝にとって、常に政治課題となる難問であった。始皇帝は匈奴に対しては強硬姿勢で臨み、前215年には蒙恬(もうてん)将軍を派遣して匈奴軍を更に北へと撃退した。一方、始皇帝は南方にも領土を広げ、現在のベトナム北部を含む南越地方を支配下に収め、新たに三郡を設置した。

秦の南西北伐(「世界の歴史まっぷ」より)

万里の長城に加え、皇帝の後宮である阿房宮や、生前から建設が始まった皇帝陵など、始皇帝の興した土木工事は、とにかく大規模かつ苛烈な突貫工事であった。何十万人もの人々が動員され、過酷な強制労働は、後に秦への反乱を誘発する火種となった。始皇帝は不老不死の薬を求める一方で、自らの墓を巨大かつ豪勢に造営し、その面積はエジプトのピラミッドや日本の大仙古墳(仁徳天皇陵)をもしのぐものであった。

始皇帝陵・兵馬俑坑(Wikipediaより)

一代で中華統一を成し遂げた政皇帝は、いかにも性急な人生を送った。「人生は無為に過ごすにはあまりに長いが、何事かを為すにはあまりに短い」という格言がある。始皇帝にとっては、限られた生の中で、自らが為そうとしたことを全て実現するためには、時間がいくらあっても足りないと感じられたのではないか。無理に無理を重ねて推進した統一事業は、その性急さと強引さゆえに、多くの人々の反発を買った。同時代の人々にとっては、迷惑この上ない独裁者だったかもしれない。しかし、彼が礎を築いた万里の長城や始皇帝陵の兵馬俑が後世に世界遺産となり、彼の作り上げた統治体制が後の歴代中国王朝を支えるシステムの原型となっていったことを思うと、やはり彼は始皇帝を称するにふさわしい人物であったと思われるのである。

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