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連載日本史264 70年安保

1960年に改定された日米安全保障条約は無期限の条約であったが、10年経過後は日米のいずれかが廃棄を通告すればその1年後には条約は終了すると規定されていた。その10年目が近づいた1960年代末になって、安保条約の自動延長に反対する70年安保闘争が起こった。

70年安保闘争当時の早稲田大学キャンパス(mainichi.jpより)

60年安保闘争が岸内閣を退陣に追い込むほどの盛り上がりを見せた一点突破の政治闘争であったのに対し、70年安保闘争は安保条約自体への反対というよりも、折からのベトナム反戦運動や成田空港建設反対闘争、それに都市部を中心とした学園紛争を巻き込んだ複合的な大衆運動の様相が強かった。従って、東大の入試を中止に追い込むほどのパワーを持ちながら、その方向性は焦点を欠き、運動体内部での分裂や抗争が目立った。戦後のベビーブームで生まれた団塊の世代が大学進学の年齢に達し、進学率が大きく伸びたことで、大学がかつてのような少数のエリート養成機関から次第に大衆化していったのも、運動の変質に大きな影響を与えたと思われる。実際、安保条約の内容もよくわからないままにヘルメットをかぶってゲバ棒を振り回し、「アンポ反対」と叫んで暴れ回っていた学生たちも少なからずいたはずである。

学生に占拠された東大安田講堂に放水する機動隊(dot.asahi.comより)

佐藤内閣は安保条約を自然延長に任せ、70年安保闘争自体は不完全燃焼に終わったが、特にベトナム反戦運動におけるベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の活動は、思想や立場を超えた市民運動の萌芽となった。作家の小田実や開髙健、哲学者の鶴見俊輔らが中心となって立ち上げたこの運動は、既成政党とは一線を画した無党派の市民の自発的な活動であり、最盛時には全国で300以上のベ平連グループができるほどの広がりを見せ、その後の市民運動や住民運動にも大きな影響を与えた。

ベ平連のデモ(www.econfn.comより)

一方で、既成政党や市民運動の流れから外れた過激派は暴走を始めた。暴力革命を掲げる赤軍派は1969年に大菩薩峠での武装訓練を計画して凶器準備集合罪で大量の逮捕者を出し、翌年には幹部たちが日本航空のよど号をハイジャックして北朝鮮に亡命した。残されたメンバーは過激派を集結して連合赤軍を結成したが、次第に警察に追い詰められ、1972年2月、軽井沢のあさま山荘で管理人夫妻を人質にとって立てこもった。、山荘を包囲した警察や機動隊との間で激しい銃撃戦が展開され、民間人1名・機動隊員2名が死亡し、犯人の家族による説得も効果がなく、鉄球による破壊や放水、催涙ガス、機動隊の強行突入によって、219時間にも及ぶ籠城戦はようやく鎮圧された。その後の捜査で、連合赤軍内で「総括」の名を借りた仲間内での凄絶なリンチや殺し合いが行われていたことが判明し、狂気の全貌が明らかになったのである。

あさま山荘事件(weekly-economist.mainichi.comより)

あさま山荘事件の様子はテレビで生中継され最高視聴率89.7%を記録した。戦後25年を経て、もはや暴力革命など不可能であり、過激派の行動は単なる犯罪にすぎないこと、そもそも暴力という手段を肯定し信奉している時点でいくら理想を掲げてもその主張には根本的な矛盾があることが、衝撃的なテレビの映像を通じて、感覚として人々に理解されたのである。

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