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連載中国史54 中華民国(4)

1931年9月、関東軍は奉天郊外の柳条湖で、満鉄の線路を自ら爆破し、これを中国軍の仕業として軍事侵攻を開始した。いわゆる満州事変である。関東軍は半年足らずで満州全域を占領。翌年には清朝最後の皇帝であった溥儀を執政として満州国の建国を宣言した。満州国は五族協和をスローガンに掲げたが、実態は関東軍と日本の官僚からなる傀儡国家であった。これに対し、中国各地で抗日運動が激化したが、国民党政府の蒋介石は共産党との内戦を優先し、日本との直接対決を避けた。満州事変と同年には江西省瑞金に毛沢東を主席とする中華ソビエト共和国会臨時政府が成立しており、共産党勢力は国民党政府にとって大きな脅威となっていたのだ。満州事変の首謀者であった関東軍参謀の石原莞爾は、国共内戦に足をとられて満州にまで手が回らない中国政府の状況を計算に入れて事を起こしたものと思われる。彼自身は満州制圧後は更なる戦火の拡大を望んではいなかったのだが、ひとたび暴走を始めた軍事行動は止まらず、翌年には日本軍による上海爆撃(上海事変)が起こり、宣戦布告もないままに、日中両国は事実上の戦争状態へとなだれ込んでいく。

日中戦争時代の中国(「世界史の窓」より)

日本の軍事行動拡大に対して、国際連盟が非難の声を上げた。連盟から派遣されたリットン調査団は、満州事変を日本の侵略行為と断定した。ただし連盟は、日本の満州権益は認めるという妥協的な姿勢を見せてもいた。しかし日本は態度を硬化させ、1933年に国際連盟を脱退する。一方、中国国内では国民党軍の攻撃により、共産党軍が瑞金を離れ、三年にわたる長征を経て、1936年には陝西省延安に本拠地を移した。同年、張学良が蒋介石を監禁して国共内戦の停止を求めた西安事件が起こる。蒋介石は彼の主張を受け入れ、翌年には第二次国共合作による抗日民族統一戦線が成立した。結局、日本の侵略行為が中国の内戦停止を促すという皮肉な結果になったのである。

日中関係と国共合作(「進研ゼミ高校講座」より)

敵対関係にあった者たちが共通の敵に当たるために手を結ぶという政治力学は歴史においてしばしば見られる現象である。中国における国民党と共産党の間にも、その力学が働いたわけだ。そして、1937年7月、北京郊外の盧溝橋において日中両軍が軍事衝突。「事変」という言葉で誤魔化し続けていた両国の軍事対立は遂に日中「戦争」となり、二年後に欧州で勃発する第二次世界大戦と連動して、世界を巻き込む大戦争へと拡大していくのである。

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