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連載中国史51 中華民国(1)

辛亥革命のリーダーとなった孫文は、1894年にハワイで興中会を結成して以来、十年以上にわたって粘り強く革命運動を続けてきた。日露戦争後の1905年には東京で革命結社を統合して中国同盟会を組織。民族独立・民権伸張・民生安定の三民主義を掲げ、清朝を打倒して近代国家を建設しようとしたのである。1911年の武昌蜂起に呼応して、中部と南部の省は次々と革命に応じたが、北部の省は清朝側についた。翌年1月、中華民国臨時大総統の地位に就いた孫文は、首都を南京に置き、北方軍閥の領袖である袁世凱との交渉にあたった。袁世凱は、清朝最後の幼帝である宣統帝(溥儀)の退位と引き換えに、大総統の地位を要求。孫文はこれに応じ、2月に宣統帝の退位が実現し、3月には袁世凱が孫文に代わって臨時大総統に就任した。ここに三百年近くにわたって続いた清朝は滅亡したのである。

辛亥革命と孫文(帝国書院「エスカリエ」より)

中華民国は成立したものの、袁世凱は軍事力を後ろ盾にして独裁色を強め、国会選挙で圧勝した国民党を弾圧した。清朝打倒のために軍閥の力を借りた孫文の判断は、少し甘かったのかも知れない。一方で、広大な中国で革命を成就するためには、強大な軍事力が不可欠であるという判断も理解できないわけではない。苦渋の決断ではあったと思うが、結果的に孫文は、今度は袁世凱と戦うことになり、1913年の第二革命に失敗して日本に亡命。翌年に東京で中華革命党を結成して更に反体制活動を続けることとなったのである。

袁世凱(コトバンクより)

1914年、サライェヴォでのオーストリア皇太子夫妻暗殺に端を発した第一次世界大戦が勃発。欧州全域のみならずアジアにまで影響は及び、列強の中国分割にも転機が訪れた。この機に乗じた日本は、大陸での権益拡大をもくろみ、袁世凱政府に二十一ヶ条の要求を突きつけた。建国間もない中華民国には理不尽な要求に抗するだけの外交力もなく、1915年5月9日、袁世凱は日本の要求を受け入れたが、それは中国国民の猛反発を呼び、後に5月9日は国恥記念日として記されることとなった。欧米列強も日本に対する警戒を強め、それは大戦後の国際関係に影を落とすことになる。一方、袁世凱は自らへの権力集中を目指して帝政復活を企図したが、それに抵抗する第三革命が起こり、翌年、彼の死によって野望は潰えた。辛亥革命から五年。政情いまだ不安定なまま、新生中国は時代の荒波に巻き込まれてゆくのである。

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