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オリエント・中東史⑤ ~アッシリア~

前3000年紀頃メソポタミア北部に興ったアッシリアはシリア・メソポタミア・アナトリア・イラン高原を結ぶ交通の要衝として中継交易で栄えたが、前9世紀に至るまでは、周辺のアッカド王朝やウル第三王朝やミタンニ等の支配を受ける弱小勢力に過ぎなかった。この時代のアッシリアを、後の帝国時代と区別して古アッシリアと呼ぶ。

アッシリアがオリエント世界全域を支配する帝国へと変貌する契機となったのは、前1200年頃に突然滅亡した軍事大国ヒッタイトが独占していた鉄器製造技術を継承したことである。当時としては最強の兵器である鉄製の戦車と騎兵隊を編成したアッシリア軍は周辺諸国への侵略を開始し、鉄鉱石の産地であるアルメニアを手に入れて更に強大となった。前8世紀中頃に王位に就いたディクトピレセル3世は版図の拡大に努め、服従した国は属国として支配し抵抗した国は滅ぼして属州とする、いわゆる帝国主義的政策をとった。兵器の改良や軍制改革によって更に強大な軍事力を得たアッシリアは、前732年にはシリアのダマクスクを占領してアラム人勢力を制圧し、前729年にはバビロンを征服してメソポタミア全域を支配下に置いた。次いで722年にはイスラエル王国を滅ぼし、ユダ王国を属国とした。前8世紀末に王位に就いたサルゴン2世は、征服地の諸民族の強制移住を進めた。前663年にはアッシュール・バニパル王が、分裂状態に陥っていたエジプトを支配下に収め、アッシリアはオリエント全域に及ぶ世界初の帝国となったのである。

「帝国」とは、多くの異なる民族や文化圏を包含する統一的支配圏を有した国家形態と定義される。メソポタミアの一地方勢力に過ぎなかった古アッシリアが世界初の帝国へと脱皮した直接の契機は、鉄器製造技術の獲得による軍事力の強化、すなわち技術革新(イノベーション)であったわけだが、それなら何故、早くから製鉄技術を独占していたヒッタイトが、周辺諸国を脅かす強大な軍事力を擁しながらも、帝国的拡大に至らずに滅亡していったのだろうか? ヒッタイトはオリエント世界西端のアナトリア(小アジア)、アッシリアは交通の要衝で鉄鉱石の原産地に近いメソポタミア北部という、いわば「地の利」の違いも一因であろう。だが、それよりも大きな要因は、アッシリアが古くからの交易活動で培った異文化・異民族への対処能力や交渉力、さらに広大な支配地域を掌握するための情報処理能力ではなかったかと思うのである。アッシリアは広大な領土をいくつかに分けて各々に総督を置き、駅伝制を整備して中央政府との迅速かつ円滑な情報伝達を図った。アッシリア最盛期の首都ニネヴェの遺跡からは、膨大な楔形文字を記した粘土板が発掘されており、世界最古の図書館がそこにあったと考えられている。おそらくそれが帝国の情報センターとしての役割を果たしていたのだろう。ヒッタイトとアッシリアの最大の違いは、情報に価値を見出し、それを有効に流通させ、蓄積し、活用するリテラシーの差であったのではないかと思うのだ。

とはいえ多様な民族・文化を包含する帝国の運営は容易ではない。厳しすぎる統治は反乱を招くが、逆に緩めすぎると帝国は分裂して瓦解に至る。アッシリアの場合は前者であった。強大な軍事力を背景にした過酷な支配は諸民族の反発を招き、それを抑えるために更に軍事力を増強せざるをえないという悪循環によって、帝国は次第に国力を消耗していった。いつの時代でも、度を越えた軍拡は経済を圧迫し、国を守るための防衛力が国を破産させるという矛盾が生じるのだ。アッシュール・バニパル王の死後、帝国は衰退し、メソポタミアにはアラム系のカルデア人による新バビロニア(カルデア)、東部のイラン高原にはイラン民族系のメディアが台頭し、エジプトにはエジプト人の王朝が復活した。そして前612年には新バビロニアとメディアの連合軍によって首都ニネヴェが陥落し、世界初の帝国であったアッシリアは滅亡した。その後、オリエント世界は、新バビロニア・メディア・エジプトの三国に、アナトリア地方に興ったインド・ヨーロッパ語族系のリディアを加えた四国分立時代へと移っていくのである。

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