見出し画像

『空も飛べるはず』

お風呂でYouTubeをつけていたら、スピッツの『空も飛べるはず』が流れてきた。きみとでーあーったきーせーつがー、と一緒に歌う。歌詞もほとんど覚えていた。伸びやかで気持ちがいい。すっかり気分良くなってから、「そういえばこの歌、大嫌いだったのになあ」と思った。

3.4歳くらいだったと思う。どこかの運動公園にあった沼にはまってしまったことがある。ただ遊びたかったのか、きょうだいの後をついていったのか、なにか落とし物を拾おうとしたのか。どうしてはまったのかは覚えていない。とにかく汚くて広い沼のど真ん中に、ひとりで取り残された。
どうにか岸に向かおうと動けば動くほど、体が沈んでいった。だんだんと沼が重くなって、体がちょっとも動かなくなる。ただ、ゆっくり下に沈んでいく感覚があるだけ。もしかしたらここは底なし沼で、そのうち頭まですっぽり沈んで、息ができなくなるんじゃないか……。地獄に引きずり込まれるような、体を石にされるような、とんでもない恐怖だった。

結局、母が引っ張りあげて助けてくれた(気がする)。赤い、だいすきだった靴が片方沼に飲み込まれた。
その帰りの車の中で、ずぶずぶぬめった沼の感触とか、暗いところへ沈むゆっくりさとか、どうにもできない感じとか、人生で初めての恐怖を反芻しているときのBGMが、『空も飛べるはず』だった。
以来、わたしの頭には、恐怖と『空も飛べるはず』がしっかり手を結んで記憶された。

その後も、テレビから『空も飛べるはず』が聞こえてくる度に、ぎゅっと目と耳を瞑って、恐怖に引きずり込まれないようにと戦った。何年も経って、「懐かしソング」として流れてきたときもそう。沼の記憶はだんだんと薄れていったけど、曲への恐怖心や不快感はずっと残っていた。


それが今、「気持ちがいい」になっている。

音楽と記憶の結びつきはすごく強いと思う。あのとき聴いていた歌、あの人が好きだったバンド、初めて生で聴いたライブの一曲。そういうのを聴くと、鮮明に当時の記憶がよみがえるという人は多いだろう。でも、わたしはもうそれさえも薄くなったんだなあと思った。

気持ちよく聴ける、気持ちよく歌える。それはいいことだ。なんだけど、なんかこの曲に対する「特別感」がさっぱり消えてしまったような気がした。わたしと、この曲とのつながりが失くなったというか。


「忘れる」ことに関して、2つのセリフが思い浮かぶ。

忘れられないのは怖いと思っていたけど、今は——忘れるのも怖い

『Landreaall』6巻

忘れるってさ、とってもいいことなんだ。ぼくたちは、前を向いて進んでいく。あたらしい出来事を受け止めて、あたらしい記憶で心を埋めて、古い記憶を消していく。景色は流れ、記憶も流れていく。それが前に進むってことなんだからね。

『さみしい夜にはペンを持て』

忘れることは前に進むことで、いいことだと思う。でも、記憶が消えていくのには足元がボロボロと崩れていくような不安感もあって、ちょっと怖い。単純にさみしさなのかな。
とりあえず、いつか、まったく忘れてしまった自分のために、書き記しておこうと思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?