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感性はその人自身のもの〜自分の感じ方に自信を持つ

その作品の作られた自然環境を体験した方がいい、とよく言われている。僕の先生もそんなことをよく言っていた。ウイーンの雨上がりの道で感じる匂い、枯れ葉を踏んだ感じ。みたいなことをおっしゃることがあった。

料理も本来のその土地で味わうべきだというが、作品と空気との関係は大切な繋がりがある、とは思う。

だが、料理も作品もそれだけで完結しているひとつの世界でなくてはならない、とも思っている。
料理も作られたそのものそれぞれに価値があり、味わいがある。作品もその楽譜の中に閉じられた論理の世界がある。

楽譜の場合、むしろ、その楽譜の中に閉じられた世界の中に、作品の生まれた空間やその空気が封入されている。その開封の瞬間をいかに活かせるかが演奏の問われるところにある。

まあ現地に行けない怨恨感情もあるのだろうけれど笑、その目の前にある料理を味わうこと、目の前にある楽譜から作品自体を読み取ることこそ大切なことだ。そして、そこから背景にあるものに想いを寄せるのは受け手の権利なのだ。

ロダンの「考える人」は単体の場合、「地獄の門」から切り離して考えるべきかどうか。の問題もこれに繋がる問題だ。切り離されてそこに存在する「考える人」の姿自体を味わうのか、その背景にある「地獄の門」を想像して鑑賞すべきなのか。

その両者のどちらも正解ではあるだろう。

だが、自分は前者の立場でありたいと最近考えている。作品は閉じられた論理の世界を持っている。その作品自体と向き合うことこそが大事なのだと。

作品の外の情報があることによって「感性が豊かになる」なんていうのは嘘だ。それは新しい「色眼鏡」をかけたに過ぎない。むしろ、作品と個人が生で向き合ったときに何を感じるのかこそ「感性」なのだから。作品に纏わるいろいろな蘊蓄がなくてはらならない、なんて感じるのは、むしろ、劣等感の塊のようなものだ。それは自分自身に自信がないから権威に頼っているのと同じだからだ。

閉じられた完結した世界を持つ作品とどう向き合うのかは個人の問題でしかない。そして、それをどう受け止めようと、それも他人の知ったことではない。それはその人自身の課題なのだから。

同じように、これこそブラームスとか、ベートーヴェンはかくあるべきとか言うのも不毛な格付けでしかない。閉じられた理論とはいあ、演奏千差万別なのは当然なのだ。もちろん、楽譜はある程度制限はしているけれど。その範囲を読み取れないことこそ「誤り」なのだ。

自分の感性に自信がない。その劣等感は、他人の評価を求めて彷徨ってしまう。結局、世間の評価に振り回されて終わる。それは虚しい。作品を自分がどう感じるかはその人自身の問題だし、同じようにその楽譜から何を読み取るのかも千差万別だ。

ただ、劣等感は他人に投影してマウント取りにも繋がりかねない。自分が知った蘊蓄で他人の無知に優越感を持つのは、いわゆるアイデンティティの危機へのわかりやすい対応機制に過ぎない。

怨恨感情も劣等感も、自分に自信を持つことで乗り越えられる。「自分が何を感じるか」こそが自分の大事な感性なのだから。

その上で、演奏ができることは作品の可能性を広げることだろう。千差万別な読み取り方から、新しい道を示すことはできるのではないだろうか?そこに勉強を続けている理由がある。

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