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小節線は折り紙の「折り線」〜ブラームス交響曲第3番第1楽章

ブラームスop90第1楽章の第2主題9/4のカウントもまた、小節をひとつとしなければならない。楽譜が3/4に書かれていないのは、三連符の三拍子のような音楽にしたくないからだ。楽譜はあくまでも小節を分母とした4拍子を歌っている。

この9拍子でテンポを落とし、カウントを変えるのは最後の3小節間だけだ。ここだけは付点2分音符のカウントになる。この3小節間と6/4への移行の過程は四分音符の3拍子と5拍子のリレーによって執り行われる。つまり、15小節めからのクールダウンの過程の拍節感の短縮系になっているのだ。この移行場面では古典的な緩急対比方法の応用を使っている点を見落としてはならない。

だが、そのカウントはその3小節だけ。この第2主題を三連符の三拍子でカウントしてしまうとテンポは遅くなる。この第2主題のスッキリとした音楽はこどもの踊りのようになってしまう。三連符の三拍子になってしまうとリズムをとつているpizzは無機的になってしまう。それは滑稽を通り越して下手くそな音楽に陥ってしまう。この9拍子の小節は、チャイコフスキーop74の5/4や12/8と同様に、あくまでひとつの単位なのであって決して分割してはならないのだ。分割した途端に形は崩壊してしまう。

逆に言えば、形が見えているからこそ、第2主題最後の3小節は三連符を単位と執ることに気がつけるのだ。

闇雲に音符を鳴らすのではなく、その音楽の形や骨格を掴もうとする考察は欠かせない。

この辺りの変化の面白みを堪能できるためには小節を単位にできる縮尺間があるかどうかである。つまり、音符を鳴らすという楽譜の見方だけでは音楽にはならないのだ。

それは楽譜の限界なのではない。捉える側の力不足でしかないのだ。優れた作品は五線譜のメルカトル図法的な性格をよくわかった上で、記譜がなされている。メルカトル図法を使いこなせない航海士が目的地に辿り着けないように、楽譜のそのような捉え方が理解できない演奏者や批評者は失敗するのだ。平面図を立体として捉える力がなくては楽譜に記されている音楽は再現できない。

そういう意味で、せめてバロックのダンス音楽のリズム感を数多くボキャブラリーの中に入れておく必要があるのだ。ダンス音楽はそのジャンルごとの基本的な法則による形を結ぶからだ。音響ではなく作品の形を掴む癖がなくては楽譜の小節線の意味がわからない。それは単なる仕切り線ではなく、折り紙の折線のようなものだ。楽譜はある意味で展開図なのだ。

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