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この4拍目をどう扱うのか?

「楽譜の可能性を広げる」とは、どういうことだろうか。こないだ、そんな問題例に出会ったので、その事例を書いてみる。

K.504の第1楽章の第2主題の後半と同様に、ベートーヴェop67第4楽章の第2主題の後には「アウフタクトをどう取るのか」課題がある。というよりは、それを「アウフタクトとして取るのか」というべきかもしれない。

K.504の場合は113小節めに見られる音形の二つの四分音符をどう扱うのかの問題だ。112小節めから始まるこのフレーズは
①この二つの四分音符がダンパーとなって受け止める
②この二つの四分音符がそのまま次の小節のアウフタクトとして機能する
③4拍目が次のアウフタクトとして機能する
以上3つの考え方がある。だが118小節の3拍めと4拍めがスラーで括られていることから答えは見えてくる。「なぜこの118小節めのみこのスラーがあるのか」が答えの鍵となっているのだ。
つまり「この小節に限って4拍めをアウフタクトとして機能させない」という楽譜の意志の表れなのだ。そうすることでこのフレーズにひとつの区切りをつけている。
このことから、③の考え方が正しいと推察できるのだ。「感性」の問題ではなく合理的な理屈である。

ベートーヴェンop67第4楽章の場合だが、65小節めのcl,fg,va,vlcの3拍めと4拍めをどう扱うのかの問題である。
①2、3、4拍をアウフタクトとして扱い「運命動機」のように歌わせて次に向かう
② 3、4拍をアウフタクトとして機能させて次に向かう
③ 4拍のみをアウフタクトとして機能させて次に向かう
④ 3、4拍をフレーズの句点として扱う。これを積み重ねながら進む。
という考え方があるだろう。ちなみにベーレンライター版ではvaのみ3、4拍をスラースタカートで括っている。さらに69小節でdolceを記されているob には2、3、4拍をスラースタカートを付している。

さて、その69小節めのobのdolceの指示自体は旧版にもある。この指示をどう扱うのかが、この課題の鍵となる。

このdolceはここにのみ表れる。つまり、このobの箇所のみに運命動機的なアウフタクトを求めているものだと考えられる。というよりもそこに、特別な変化、柔らかい感覚を求めていると読むべきだろう。そう考えると①の選択肢はあり得ない。

自分では③を採っている。それはこの音楽が2/2ではなく、4/4だからである。
③として理解した場合、64小節めで始まったフレーズは66小節めや68小節めで、単純な歌い直しの連続ではなく、歌い直しによる積み重ねとして変化をつけることができる。単純な積み重ねではなく、歌い直しとして音形を繰り返すことで、64よりは66、さらにより68小節めへとその音楽の感情は高まる。その表情の機微を見ることができる。それを見つけるとこの第2主題が魅力的に見えるようになっている。K.504の場合ほど合理的な見解ではないのだが。

このように楽譜の情報をどう処理するか、は簡単ではない。しかし、ここに見るような選択の可能性が見つかると単純に弾きとばすことでは発見できない魅力を見つけることがある。こうした問題は、実は作曲者自身も無意識であるようにも感じられる。

「作品=作者ではない」の立場を採るのはこのためでもある。つまり、作者自身の頭に浮かび吟味された論理構造として書き記された作品であるが、それは楽譜に書き落とされた段階から「論理」として、全ての思考の前に平等に存在するものになるからだ。作者本人が推敲したり、他者が校閲したりすることができるのは楽譜として閉じられた論理として存在するからだ。閉じられた論理として、その選択の可能性、読み方の可能性は、組み合わせの数として複数あるだろう。それの「どれを作者が選ぶか」が問題なのではなくなる。作者の自作自演があったとしてもそれは可能性のひとつでしかないのだ。
楽譜として書き落とされた時点で全ての人に平等に楽譜は存在するのだからだ。そう考えることがフェアであろう。

作者を美化して崇拝するという伝記的な考え方はあまり薦められないのだ。例えばベートーヴェンやモーツァルトなどの場合、そこには政治的な思惑もあったからだ。そのプロパガンダの名残に乗せられて、あるいは商業的な理由から、与えられた価値観の優劣を付けてしまうのは愚かなことだ。

社会背景とか伝記的な情報など、そういうものから切り離して作品自体を見る。楽譜から考える。そうしなければ作品は見えてはこない。
作者ではなくまず作品が大事にされるべきなのだ。

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