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飛び込む勇気と引き出す勇気〜「その指揮では入れない」という常套句

補助輪を外して自転車に乗れるようになると、そのバランス感覚は当たり前になる。逆に、補助輪があるときにはその安定が癖になってしまう。

「数える」というのが癖になっていると、その補助輪がなくてはならないものになってしまう。

「数える」は基本中の基本だ。しかし、それはメルカトル図法的な正確さでしかない。つまり、自然ではない。どこかを諦めた正確さでしかない。

メルカトル図法の地図は緯線と経線が垂直に交差し、二点間の角度は正しく測ることができる。だが、面積は極方面に向かうほど歪んで大きくなってしまう。それは使用用途が航海図として作られたものであるからいいのだが、分布図としては適さない。この地図法のように、自然な物理的な存在を均等平面化する時、そこには妥協的に矛盾を許さなければならない。楽譜についてもそれは同じことだ。本来的には均等ではないものを便宜上均等化して表しているのが楽譜の音符や休符である。演奏という立体化の段階で、それらの分割記号を均等的に扱ってしまっては必ず矛盾が生じる。

「数える」は妥協的な「補助輪」である。だが、その平面図形的な妥協から脱却しないと自然物理的な運動にはならない。

最終的には、アウフタクトは数えるものではない。運動法則に則って引き出されるものなのだ。

ブラームスop98の冒頭やチャイコフスキーop74の第1楽章第1主題の入りなどそのアウフタクトを「数える」のが癖になると「引き出す」ことは怖くてできなくなる。アウフタクトを引き出す力は直接的な動きではない。反作用だ。何かしらのインパクトによって引き出すもの。「ひと振り」では引き出す力がなければ自然さは失われてしまうのだ。あるいはその「一振り」で反応できなくては機械的なアンサンブルしかできない。

そのブラームスにしてもチャイコフスキーの場合にしても、その運動の大きなサイクルが見えていないと、見ようとしないとメルカトル図法的な不自然な正確さしか達成できない。小節の4拍子が見えていない場合「その指揮では入れない」状態になってしまうだろう。「ワルツの指揮は難しい」もまた同じだ。そして、その視野の元では、場合によってはチャイコフスキーの場合のように誤った位相に陥ってしまう危険性もある。

細かいカウントは「補助輪」である。いつかは外さなければならない。その「補助輪」が当たり前になってしまったら自然なバランス感覚は絶対に味わうことができない。

つまり、「わかり易い指揮」というのはミクロ的には「正しい」かもしれないが、マクロ的な観点から見たら「不自然」なものになる。場合によっては「芝居臭い田舎芝居」になりかねない。

自然な表現がある場所には、お互いに「飛び込む」「飛び込ませる」勇気が必要なのだ。ワルツにおけるウイーン風の刻みも指揮によって叩くのではない。その前にズレる2拍目は「飛び込む」勇気によって引き出されるものなのだ。

そこには真の意味での正確さはない。だが、そこに持っていく賭ける姿が求められる。

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