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コロナ禍の京都で考えた「続ける」ことの意味

去年の夏から秋にかけて、仕事で何度か京都に行く機会があった。

京都はそれまで数回しか行ったことがなかったのだが、これまでで一番、落ち着いた京都だった。

コロナ禍の、しかも平日だったからだ。海外からの観光客はもちろん、国内からの観光客も少ない。せっかくなので、知恩院のような著名な場所も含めいくつか寺をまわったが、どこもゆとりがあって空いていた。


(※)本ブログは、株式会社PLANETSが発行する雑誌『モノノメ 創刊号』について、そのいち編集部員である僕が、個人的な所感を綴ったものです。このブログを通じて、より多くの方に『モノノメ 創刊号』を手に取ってもらい、既に購入いただいた方にはより多角的に雑誌を読む一助としてもらいたいという目的で書いています。

もちろん、僕のようなたまに訪れる外野の人間にとっては快適だが、人が極端に少なくなったことによって、多くの産業が打撃を受けているのはわかっている。「空いててよかった」と言いたいわけではない。

ただ、なんというか、この緊急事態下でも、変わらずお寺や街の飲食店は普通に開いているのだなという、当たり前の事実に少し驚いたのだ。

「コロナ禍で観光客が激減している」と聞くと、何か閑散とした街をイメージしてしまうが、もちろん人は減っているものの、それでも昔からある京都の町並みは大きくは変わらない。

人があまり来なくなっても、みんな各々がすべきことを、淡々と続けている。


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PLANETSの新雑誌『モノノメ 創刊号』に収録されている、[寄稿]猪子寿之「『「祈り」展』のこと」を読むと、まさに「粛々と続けること」の意味を考え直させられる。世界がコロナ禍で閉ざされる中、チームラボは、無観客で場所も明かさない展覧会『「祈り」展』を開催した。その開催に込めた、ある種の猪子さんの政治的な態度表明にも近い想いが語られている。直接のきっかけとなったのは、まさに大晦日の京都で見た、神社仏閣の光景だ。

自粛ムードの世情はものともせず、千年以上続いているまつりごとを、粛々と執り行っているのだ。鐘を叩き、お経を読み、楽器を演奏し、そして祈っている。世間の空気に右往左往せずに、すべきことを、ぶれずに淡々と行っていた。そんな光景に刺激を受け、「別の人が来なくてもいいから、展覧会をやりたい」と思うようになったのだ。(p315)

誰に見せることがなくとも、自身のすべきことを、粛々と続けること。日々さまざまな文章を世に送り出している僕としても、ぶっ刺さる。何かを続けている人、続けていきたい人、すべてに読んでほしい記事。


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