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理念とかビジョンとかやりがいとか、そんなことを考えなくちゃいけない時代の「ゆたかさ」とは何ぞやと。

企業の理念とかビジョンとか、あるいは、個人の生きがいとか働きがいとか。
今って、そういうのを考えてる会社・個人って多いじゃないですか。

いや、社会全体で見たら、そういうことを考えてる会社・個人の方がマイノリティなんですよ、実は。
全員が全員、そんな大層なことを考えて、意識して働いてるかって、そんなことは全くない。
もちろん、彼らにそれを強いる必要もないし、そうすべきじゃない。

とはいえ、やっぱり増えてきてるのは間違いないと思うんです。
たとえばほら、「やりがい」の検索ボリュームなんか右肩上がり。

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とっても大事なことだとは思うんですよ。
人数の大きくなった会社とか、逆に立ち上げ期のスタートアップとかは特に。

実際、僕が今個人でコンサルしてる案件でも、会社のビジョン・ミッション・バリューをゼロから見直すっていうことをしてますし。
そこにちゃんと向き合わないといけないときっていうのは確かにあって。

あ、ちなみに僕、ビジョン・ミッション・バリューってちょっと分かりにくいので、世界観・使命・価値観って言い換える方が好きです。

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まあ、それはさておき。

僕が最近モヤモヤ違和感を感じてるのは、理念とかやりがいとかを考えないといけない時代なんだよなあ、っていうことで。

これ別に、理念もやりがいも無意味だ、みたいなことではないんですよ。
確かにその過程は苦行ではあるんだけど、それを考えて、向き合って、浸透させてって、それは間違いなく大切なことで。

でも、ひと昔前って、やっぱりそういうことを考えてる会社・個人の割合は、今よりずっと少なかったはずなんです。

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たとえば、高度経済成長期。あるいはバブルの時期。

社会は、今よりももっと乾いてたんです。
足りないものがいっぱいあって、満たされてなくて。
でも、そこにしっかり付加価値を提供していけば、社会は確実に「良く」なっていくわけです。
やることもたくさんあって大変だけど、やればしっかり売上や収入として返ってくる。
人口ボーナスもあったけど、やっぱりGDPも成長を続ける中で、日本全体としてそういう実感はあったと思うんです。

じゃあそういう状況で、理念とかやりがいとか、そういうことをどれだけ考えていたんだろうかと。
もはや明文化するまでもなく当たり前のことになっていて考える必要もなかったり、はたまた考える余裕もなかったり、そういう会社・個人が多かったんじゃないかなって思うんです。

僕はその時代に働いていなかった、生まれてすらいなかったのでただの想像ではあるんですが、でもこの話、年配の方にしても割と共感してもらえるんですよ。
一応、東レとかホンダとか、1950年代には立派な「社是」が掲げられてた企業はいくつかあったようですが、なんとなく、現代社会において世間で求められてる企業理念その他とは少し意味合いが違う気もします。

それが「良い」ことなのか「悪い」ことなのかはどうでもいいんですけど。
とにかく、そういう時代の変化は一定あるはずなんです。

皆さんも身に覚えがあると思うんですが、たとえばやりがいとか生きがいみたいなことに立ち返るときって、「上手くいっていないとき」「先が見えないとき」じゃないですか?

そうなんです、今の社会はそういう時代なんです。
ちょっとずつ未来に対する希望を抱けなくなってきているから、そういう贅沢なことを考えなきゃいけないときが増えている

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最近、経済学の本を読むことが多くて、経済・社会がどうすればもっと「良く」なるかをずっと考えてるんです。
そもそも、経済成長とは何かというと、経済学的に言えば、生産する「付加価値」が増えるということなんです。
だから、GDP(国内総生産)の成長っていうのが重要な指標になる。

で、たとえば、テクノロジーが経済の成長にどう寄与するのかということを考えてみる。
すると、これはこの前読んだ本の中でも指摘されていたことではあるんですが、科学技術の革新が経済にもたらす付加価値というのは徐々に小さくなっているわけです。
技術水準としていかに画期的かということではなく、社会にとって、経済にとってどれだけ「価値」があるかという視点です。

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たとえば、完全自動運転車が一般に普及したとしましょう。
車に乗って、行き先を喋ったら、あとはAIが勝手に運転して目的地に連れていってくれる。
でもそれって、乗る側からしたら、タクシーに乗って行き先を伝えればそこまで運んでくれる体験と本質的にそんなに変わりますかね?

確かに、自動運転によってもたらされる付加価値はゼロではないです。
2018年のCESでトヨタが発表したe-Paletteのコンセプトとか、結構ワクワクしました。
過疎地域でもラストワンマイルとか、あるいは長距離の運送とか、そういうところでこそ本領を発揮するとは思います。

だけど、今普通にタクシーを利用できている人ほど、自動運転の登場によって得られる付加価値は小さい。

先進国の、それも都市部の高収入の人ほど、つまり、既に先端テクノロジーの恩恵を十分に享受している人ほど、今後テクノロジーによってもたらされる付加価値は小さくなる
そうすると、人類全体としていつかは頭打ちになる、かもしれない。
テクノロジーの進歩が、ではなく、「経済的な」成長が頭打ちになるという意味です。

それとも、経済は無限に成長するんでしょうか?
今の主流派経済学は無限の自然を前提としていますが、実際には資本主義経済がその有限の自然の壁にぶつかるのか、はたまた、テクノロジーとかいう魔法で地球の外まで人類の経済を広げるのが先か、っていう話。

まあ、テクノロジーはあくまでも手段のひとつでしかないですし、経済成長に寄与するファクターはテクノロジーだけではないので、これはあくまでも一例ではありますけど。

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ともあれ、「便利さ」という価値を追い続けるのは、もう限界が近いのかもしれないなあと感じているのです。
そういう意味では、少なくとも「便利さ」ではない付加価値というのを、そろそろ考えないといけないのかもしれないなあと。

一方で、今僕が当たり前に享受できている価値が行き届いていない国・地域・業界その他は、まだまだたくさんあるわけです。
そこに目を向けられていないから、理念とかやりがいとか、そんなことをいつまでも考えているのかもしれません。
東京で、都会で「消耗する」っていうのは、実はそういうことなんでしょうかね。

いずれにしても、そういう時代を生きる個人にとっての「ゆたかさ」なるもの、あるいは社会全体にとっての「ゆたかさ」なるもの、その正体を僕はまだ分からないでいるのです。

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