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暁のトンボ (後編)

前編はこちらです。


トキ子が宇品で幹治を見送ったのち、二人の息子達は電車に乗り、疎開先の静岡の父の実家を訪ねた。
連絡はしてあったが、二人はけして温かい待遇は受けられなかった。
末の子が八か月過ぎるのを待って、トキ子たちも、学徒動員に行っている長女以外、静岡に疎開し、六人で小さな小屋を借りて生活を始めた。
幹治が言ったとおり、その後国内あちこちで空襲を受けるようになった。
トキ子達が疎開した場所も、近くに飛行場があり、時折空襲はあったが、それほどの被害はなかった。
1945年1月3日、夜中に玄関の戸が開く音がした。
(あの人が帰ってきた)
トキ子は、幹治が帰ってきた気がして、あわてて玄関に向かった。
するとそこにはびっしょりと全身ずぶ濡れの幹治が無言で立っていた。
トキ子が、しずかに
「おかえりなさい」
というと、幹治の姿はふっと消えた。
トキ子は、幹治は戦死してしまったのか・・・と、ポロリと涙をこぼした。
しばらくして、遺骨の代わりに、小さな石が届けられた。
フィリピンの海の石とのことだった。
戦死日とされたのは、乗っていた病院船が撃沈された日
1945年1月3日となっていた。
トキ子は、覚悟はしていたけれど、信じたくはなかった。

もしかしたら、どこかで生きているかもしれない。
こんな小さな石一つで、死んだなんて言われても、簡単に受け入れたくはなかった。
また、大阪の家は、6月7日の大空襲ですべてが焼け落ち、土地も失われた。
トキ子たちにはもう帰る場所がなかった。
この場所で、幹治を待ちながら、生きていこう。
そしてトキ子は行商などをしながら必死で働いて、子供たちを育て上げた。
学徒動員に行っていた長女も、終戦後女学校を卒業し無事に帰ってきて、トキ子を助けた。
戦後しばらくして、トキ子のもとに、安井が訪ねてきて、トキ子は幹治の最後を知ることができた。
トキ子はこの時ようやく幹治の死を受け入れた。


それから三十年以上の月日がたった。
トキ子には、たくさんの孫ができた。
孫の早紀子が、尋ねた。
「亡くなったおじいちゃんって、どんな人だったの?」
「真面目で無口だったけれど、優しい人だった。」
トキ子は、遠くを見ながら言った。
「赤トンボがね、たくさん飛んでいる中でお別れしたのよ。
暁トンボって言われてるんですって。
あれが最後になってしまった。
でもね、ホントの最後にもう一度会いに来てくれたのよ。
何も言わなかったけれど、優しく穏やかな目で私を見つめていた。
私がいつか幹治さんのもとに行った時は、頑張ったねって言ってくれるかしら・・・」

その一年後、トキ子は旅立っていった。
それは、幹治の月命日の日だった。
その年の初盆は、五人の子供とたくさんの孫たちが集まった。
孫たちは、いつもみんなの中心にいたおばあさんがいない事、大好きだったおばあさんの手作りおはぎが食べられない事を、とても悲しく思った。
みんなが仏壇の前で食事をしていると、玄関の隙間から1匹の赤トンボが入ってきた。
赤トンボは、食事をしている部屋の中心の電気のコードに止まって、しばらく動かなかった。
「あ、暁トンボだ!おばあちゃんだ!」
早紀子が言った。
「ほんとだ、きっとそうね。」
早紀子の叔母もそういうと、みんな黙ってしばらくトンボを見つめていた。
すると驚くことに、もう一匹赤トンボが入ってきた。
そして、二匹は、連れ立って台所を一回りしたあと、迷いもせず玄関の隙間から外に出て行った。

おじいちゃんが迎えに来たんだね。
やっと会えてよかったね。
きっと、よく頑張ったねって言ってくれたよね。
早紀子は、暁トンボが飛んでいった空に向かってつぶやいた。

おわり



あとがき

私は以前亡くなった祖母から、
戦争中夜中に玄関のドアが開いて、そこにびしょ濡れの夫が立っていた。
一言も話をしないで、その後消えてしまった。
そしてその後、その日が船が沈んだ日だったと知り、最後に会いにしてくれたんだな、と思った。
という話を聞きました。

祖母が亡くなって、初盆の時に、部屋にトンボが入ってきた。
私は、おばあちゃんだと確信していた。
そのトンボは、後から入ってきたもう1匹のトンボと共に、迷うことなく玄関から出ていったのです。
私は、もう1匹は祖父に違いないと思いました。
そして空に飛んでいったトンボを、外まで追いかけて、見えなくなるまで見ていました。

私は、それらの事がずっと忘れられずにいた。
そして、その後父や叔父叔母に、いろんな話を聞くうちに、祖父の話を書きたいと思いました。
とはいえ、人によって記憶違いがあったり、実際わからないことも多く、創作を交えて物語にすることにしました。

私は、子供のころから、昔の話を聞くのが好きな子でした。
特に、戦争中の話はとても興味深く、たびたび聞かせてもらいました。
今回は、祖父の話を中心に書いたのですが、父や叔父叔母から、まだまだたくさんの話を聞きました。
本当に貧しくて、協力し、工夫し、助け合ってしか生きていけなかった大変な時代でした。

今の便利な生活のありがたさを感じつつ、その頃の助け合い、我慢強く辛抱強く生きていた、当時の人々の逞しさが、今の時代に不足しているように感じることもあります。

恵まれすぎている生活に胡坐をかいて、楽することばかり求めないで、困難を乗り越えて行く力を、日本人の逞しさを、いつまでも残していきたいと思いました。

また、今回久しぶりにサムネ画像用に絵を描きました。
ネットで当時の船を調べて描きましたが、こんな船だったかどうかは、定かではありません。
また、宇品港に、当時トンボがいたかどうかもわかりません。
でもいつか、全く姿を変えてしまっているだろうけど、宇品に行ってみたいと思います。

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