チャンスに届かない爪の先

先週末に、一方的に敬愛してやまない辻愛沙子さんの求人が発された。



3か月と、それから6か月、僕はこの瞬間だけを待っていた。

千載一遇の待ちに待ったチャンスで、これ以上望むものは何もない。

恐らくグラフィックデザイナーが欲されるだろうという見立ては完璧だった。ひどくねじくれながらにも少しずつ勉強を進めていた。情緒不安定でせっかく入った大学も通えなくなった人間が仮説に基づいて目標をしっかりと建てて、それに向けて計画を練って、実際に手を動かしているというのは特筆すべき事だろう。「普通の人たち」と比較しないのであれば。彼女の目指す未来は僕の過去のすべてと重なる。だから全面的に賛同しているし、その実現のための駒になりたい。

辻さんが目指す世界が実現すれば、僕の愛してやまなかった小さな作品は無くならなずに済んだし、僕にように心から慕っている人の胸に一生のくびきを取り付けてしまう人も生み出さずに済む。

文明社会が理性によって営まれているというならば、欲望のままに振舞う新自由主義者をいて誰にとっても理想的な世界が生まれるはずだ。


だが、手が止まった。震えてそれ以上動かなくなって、それからほとんどの時間を布団の上で壁のしみを見つめて過ぎていった。手を伸ばそうとする右手を左手が全力で押さえつける。過去の記憶が続けざまに表れて、できない理由をでっちあげる。重力がまるで記憶のように感じられ、引きずり戻されるようにすべてを引き離していった。何もしていない無能な自分自身に、空白の存在に、還ってしまった。

ないもの探しが始まった。

志はあっても、戦力になりうるだけの能力が何一つ、まったくない。身についているものが何か一つでもあるとは、お世辞にも言えない。まともにやっていることといえばロボコンのデザインぐらい。それだって「ほかにできる人がいない場所に身を置いているから成り立っていること」だ。体育の授業でバスケ部員が一人だけ無双しているようなもので、野球部、ましてや甲子園を目指しているような集団から見れば子供の遊びでしかない。
作品を見せようにも「君のポートフォリオは数が少なすぎて何ができるのかがわからない」と言われたことが頭をよぎる。そう。今のところ僕は自分を証明できるものがない。そもそも、拙いと分かり切っている成果物をを見せるというのは本当に恐ろしい。自分で嫌になって翌日には消してしまうような代物ばかりだ。かろうじて人に見せられるレベルのものを選別していくと、その数はほんとうに少なくなる。

*

ずっと待ち望んでいれば「この瞬間を待っていたんだ」とでも叫びたくなるような出来事が、数える程度にはある。人はそれをチャンスと呼ぶ。チャンスが訪れた時に間髪入れずに飛び込んでいける人だけが、欲するものを手にしていくのだろう。たとえ飛び込む先が分かっていて、それが針山や火の海であったとしても大した問題ではない。覚悟をもつこと、それから退路を断つことはおぞましいほどのエネルギーをもたらす。だから飛び込めた人は、仮に針山であろうが一滴ずつ血を垂らして平地に仕立て上げたり、火の海であったなら少しずつ岩を削り取っていき、海を割って道を作りさえして乗り越えていってしまうだろう。名だたる偉人たちもたいていは、そのようにして道を切り開きながら世界を革新して、歴史の歩を前に進めてきた。
時にめった刺しになったり、串刺しになったり、火だるまになりながら。

希望があるから、あらゆる絶望と恐怖を乗り越えて前に進んでいける。
地球で生きることとは、地獄のような現世に一つでも多く光を灯すことなんじゃあないかと本気で思えてくる。


もうすこしありていに言うなら、チャンスとは「障害物レースのスタート地点に立つこと」だ。
「障害物レース」に挑みたい人はそれをよくわかっているし、何よりチャンスにはめったに巡り合えないから、いざチャンスが訪れたときに選手として走れるよう日々練習を積み重ねている。アスリートはその典型だろう。

幸いなことにチャンスというのは、辛抱強く待ち望んでいれば何回かは巡ってくる。かつチャンスを掴むために必要なのはたいてい同じような能力だったりする。それでもやっぱり、つかめない人の方が圧倒的多数なのではなかろうか。「三度目の正直」と祈るような気持ちで挑む人も多いと思う。

チャンスを掴める人とつかめない人の差はどこからくるのだろうか。


「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」は矛盾しているのにどうして両方残っているのだろう、という話で解説してくれた人がいた。

同じようなことは繰り返し何度も起こる。それが「二度あることは三度ある」ということ。そうなったときにどう対処するか。「次、同じようなことが起こったときにどうするべきか。今回は何が原因でダメになったのか、次同じ結果でダメにならないためにはどこを改善しなくてはいけないのか」を突き詰めていくこと。

そうやって次に備えることで「三度目の正直」が出せる。逆に何の反省も対策もしなかった結果が、「三度ある」に転ぶ、ということではないか。

要するに「昔出来なかったことは放っておくと次も出来ない。だから対策を練っておけ」ということだ。僕より4つ下で、同じ闇に生きていながらに一切それを見せない人だ。僕に「若者らしくない、よく考えている」という人は間違っている。うじうじと悩んでいるだけの僕ではなく、彼のように陽気さを演じながら、行動で示していく人に贈られるべきだ。

若者はないも考えていない、という前提がそもそも間違っているのだけれど。

*

人生はほんとうに「三度ある」ことの繰り返しだ。今日できなかったことは明日になっても、当然できるようにはならない。そのうえ忘れかけたころに人生の節目となる「三度目」が、チャンスがやってくる。

僕はまた「スタートラインに立つための努力」を怠った。ろくに手も動かさず、理屈だけは立派で、だけど現実には機能しない能書きを垂れ流し続けた。「おまえは無価値である、何の役にも立たない」と宣告されることを恐れて、外に発することも、何かを提示しようとすることも避け続けた。無価値であり続けることを、何の役にも立たぬ無能であり続けることを享受した。


永遠に繰り返される「二度あることは三度ある」の果てに、もはや取り組むことへの無力感ばかりが募っていく。「学習性無気力」というやつになるのだろうけれど、病名は現実への処方箋は与えてくれない。


人生は無限に続く問題集だ。解けなかった「過去問」は類題として何度でも目の前に現れる。それでいて正解も、模範解答も決して見ることはできない。じっくり時間をかけて分析しても、正解らしいものは出てこない。もしかしたら四則演算が出来ないまま数学を解こうとしてるんじゃないか。自分のできることをはるかに超えた無理難題をやっているんじゃないか。そんな仮説を立ててより簡単なことに立ち戻る。「出来ないこと」をひとつづつ潰していく戦いだ。永遠の自己否定だ。それでも解けなかった過去問は日々積み重なっていき、いつしか背丈を超えて自分を押しつぶしにやってくる。

「キャリア」
「お金」
「生活」
「就職」

そのすべてが束になって僕を押しつぶしに来る。


「自分らしく」「楽しく」と口々にする人たちの意味が分からない。気持ち悪い。
何が自分らしくだ。放っておけば一日中ゲームをやっているような人間だ。ゲームが何になる?どんなキャリアを築いてくれる?口を開けて餌を放り込まれるのを待っているだけの時間だ。そういう消費的な時間を、何かの習得や生産性のあることに割り当てて自己研磨していった人間だけが何かをつかみ取るんじゃないのか?だから、すべて実家に置いてきた。それなのに、ないも変わらない。目的はあっても「楽しい」と思えることなんて、どこにもない。「成し遂げたいこと」はあっても、その先にあるのは楽しい事じゃない。自分のやってきたことへの懺悔と、贖罪だ。目指している先にあるのは究極の自己否定だ。かといって怠惰を極めたような今の生活に何の意味があるというのか。食って、寝る。たったそれだけの刑期に何の意味がある?何もない人生に何の価値を見出して刑期を全うすればいい?

「自分を出す」?それは人間的魅力や何かしらの能力があるからやっていいことだ。ペットがいい例だ。ペットを飼うなんてお金も手間もかかるし正直面倒くさい事だらけだが、一緒にいることでそれ以上の幸福を運んでくれる。一緒にいることが嬉しい、だから飼う。人間関係も全く同じだ。僕は違う。部屋で、野放しに飼われている蜂だ。人間には害しかない。遠ざけられるされるのは当たり前だし、何とかして部屋から出そうとしたり死ぬまで別の部屋に逃げるのも何もおかしなことじゃない。殺虫剤を吹きかけられないだけマシだ。
 それがわかっているから人間には近づかない。だけど距離を取ったところで自分が蜂であるということに変わりはない。蜂は一生蜂のままなのか?孤独に死んでいくしかないのか?

僕は何かを目指すべきじゃないのか?何かを求めてはいけない人間なのだろうか?このまま一人ひっそりと、小さく生きて死んでいくべきなんじゃないか?

なぜこんなにも粗探しを、ないもの探しをしてしまうのかは突き詰めたところで意味がない。過去の記憶だとか、毒親がどうとか責任を他者に求めるだけだし、100%そうだったとしても治療をしてくれる人はいない。


誰かが救ってくれることばかりを祈っている。つまりそれは、誰か何か施してもらおうという態度にほかならず、つまり永遠に価値など提供できはしないことの自明だ。

「お前は無価値である。何の役にも、まったく立たない」と宣告されるのが恐ろしくてたまらない。言われようが言われまいが、現実は変わらないというのに。そう宣告されるのを恐れて、一人ひっそりと閉じこもり続けている。

出来ることならもう二度と「チャンス」など見たくないとさえ思えてしまう。光が見えなければ、無限に広がる闇が目に映ることもないのだから。

光が存在する限り、人生とは永遠の自己否定だ。
無限に立ちふさがる練習問題を前に、自分の足りないところと不味い所をダメ出しし続ける、修行ともとれない刑期だ。

伸ばしきれない腕では、爪の先ですらチャンスに触れることはない


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