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サブカル大蔵経733保阪正康『最強師団の宿命』(中公文庫)

地元ほど地元のことを全く知らない。

ゴールデンカムイで知られるようになった旭川の第七師団。

外部から訪れた原武史さんや保阪正康さんが私たちを先導していただいているのに。

旭川市の護国神社、北鎮記念館、兵村記念館を保阪正康さんが訪ねる。

〈太平洋戦争の玉砕は北海道の兵士の犠牲で始まり、北海道の兵士を犠牲にすることで終わった〉と言いたいほどなのだ。p.200

旭川と満州と沖縄。

戦争は中央よりも辺境の戦。

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館長の平塚清隆氏は、陸上自衛隊の一等陸尉という肩書きだが/とくべつに肯定したり、否定したりというのではなく、歴史としてみていきたいというのがこの記念館の姿勢だとも話す。p.15

 平塚元館長さんはご門徒さんです。でも平塚さんがいた時には行けなかった。

明治天皇は『お前が力を尽くす村だから、姓をとって永山村と名づけよ』と命じた。p.46

 私の住んでいる所が永山です。旭川の上川離宮北京構想を進めた永山武四郎。結局北海道とは中央にとってロマン枠というより非常事態時の隔離地に過ぎない。

ときどき殺したロシア兵の死にぎわの夢を見てうなされ、家族を残して京都の本願寺にこもって修行して得度をうけて帰りました。そして給与地を売って十勝の鹿追町の郊外の瓜幕というところに/説教所を開いて布教に励みました。p.78

 大正10年。屯田兵の坪野源蔵。従軍後、真宗の僧侶になった。熊谷直実のよう。

昭和の初めに旧第七師団の工兵隊がこの護国神社のなかに北海道と樺太に似せた池を作り、その一体感を強調してきたのだろう。p.93

 平成16年復元の樺太池。行ってみたい。

混成第14旅団は、9月26日に旭川を出発して小樽に向かっている。27日に小樽港を出発し釜山に向かった。p.116

 昭和七年。小樽ー釜山ー満洲か。

ハイラルから目的地、将軍廟までは茫漠たる大平原を行くこと216キロ、ここを完全軍装で6日間で踏破する将兵の苦労は言語に絶するものがあった。(『旭川第七師団』)p.153

 私の祖父も従軍したノモンハン行軍。駱駝のおしっこを呑んでいた話しかしてくれなかった。

「6月21日に糸満市の真栄平で戦死。今は南北の塔に祀られている」と。p.207

 北海道合同戦友会の調査

ソ連の北海道分割要求をトルーマンが認めていたなら、この地は釧路と留萌線の南側になるのだとも気づいた。この軍都はそうなったら、日本ともうひとつの「北日本人民共和国」と言う国家との最前線になりかねなかったのだと思うと、何かがわずかにズレただけで昭和史も、そして個々の人生も全く変わってしまうことになると気づき、改めて複雑な思いがしてきたのである。p.229

 紙一重。漫画『国境のエミーリャ』として実現しました。


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