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サブカル大蔵経886藤田宏達『真宗における本尊』(東本願寺出版部)

藤田先生の厳しくて優しい口調を文章で久しぶりに堪能しました。

一字一句おろそかにしない文献学という細かい作業の果てに突如現れる世界の広さ。

その広さこそ阿弥陀的な感じがしました。

出版された大谷派に感謝。

釈尊以来の原始仏教を受け継ぎながら、それとは違う思想の大乗仏教。

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「如来」はサンスクリット語でタターガタという語、これは「そのように来られた方」あるいは「そのように去られた方」という意味ですが、この語を中国で翻訳して漢字であらわした意訳語です。p.5

 真実は向こうからやってくる。

漢語としての「如」には、「真如」「真実」というような意義を含みますから、「如来」は「真実の世界から来られた方」というふうに解され、サンスクリット語の原意にほぼ対応しています。p.5

 如も真も〈ありのまま〉という真実。

『無量寿経』においては、インドの原典の上では、アミターバが主として用いられているのに対して、漢訳ではアミターユスに相当する「無量寿」を主として用いているのです。p.12

 〈アミタ〉は、インドでは光という空間を表し、中国では寿という時間になる。道教的解釈を通した受容。

このように、『無量寿経』ではアミターバを中心として説きながら、アミターユスと同じ仏を指し、『阿弥陀経』ではアミターユスを中心として説きながら、アミターバと同じ仏を指す。つまり両方の経典で中心となる仏名は違うのですが、結果的に同じ仏を指しております。これが阿弥陀仏を主題とした二つの浄土経典の大きな特色なのであります。p.19

 インド原典から見た『無量寿経』と『阿弥陀経』の特徴。切り離せない両輪。

そうしますと、同じ阿弥陀仏を説く経典であると言いましても、『無量寿経』『阿弥陀経』の場合と『法華経』や『華厳経』の場合とはいささか異なることが分かります。要するに、阿弥陀仏がアミターユスとアミターバ、すなわち寿命無量と光明無量をあわせた仏であることを明確に解き明かしたのは、『無量寿経』『阿弥陀経』の二経にほかならないのであります。p.20

 阿弥陀仏の奥にあるもの。無量寿と無量光の二つを内包するのが、浄土教の特色。

「阿弥陀というは、梵語なり。これには無量寿ともいう、無碍光とももうし候う。梵漢ことなりといえども、心おなじく候うなり。」(『御消息集』)
聖人は梵語の「阿弥陀」が無量寿(アミターユス)と無碍光(アミターバに相当)の二つを合わせた仏であると、はっきり認めておられたことを示しております。これも親鸞聖人がサンスクリット原典に深い関心を寄せられていたことを物語るのではないかと思います。p.22

 親鸞聖人の文献学。

そうだとしますと、アミターユスあるいはアミターバという仏名は、もとは釈尊とは別な仏をさすのではなく、釈尊を違った言葉で表したものと見ることができます。言い換えますと、この二つの名は、歴史的存在としての釈尊を新たに解釈し直した特徴的な表現と言ってよいのです。p.26

 阿弥陀仏と釈迦仏のあいだがら。

阿弥陀仏は、いわば歴史的存在としての釈尊が大乗の菩薩の理想像として思想的に見直され、救済仏として広く願われて、西方極楽世界(浄土)に出現された仏であると言ってよいのであります。p.30

 歴史的人物である釈尊の変容。

あえて釈迦像を安置する必要がないということができるのであります。p.32

 阿弥陀一仏は釈迦仏を内包している。

ナマスのあとのテーは、サンスクリット語では与格形で「あなたに」ということですから、ナマステーというのは「あなたに敬礼(帰依)いたします」と言っているわけで、挨拶の言葉としては見事な表現と言えます。p.36

 挨拶の文法的解釈。与格。デイティブ。サンスクリットの語尾変化、懐かしい。格を知らないと正しく読めない経典。

文法の規則によってナマスの発音が「ナモー」と変化して、次の「ア」という語が省略されます。念のため、その言語を記してみますと、「南無アミターユス」はナモーミターユシェー、「南無アミターバ」はナモーミターバーヤとなります。p.37

 フランス語でいう所のリエゾン。印欧語族としてのインドとヨーロッパの繋がり。

仏典の中でこの六字の名号を初めて説いたのが、『観無量寿経』であり、/これは、インドの言葉の音写の形をとりながら、しかも二つの仏名を統合した名号であり、中国におけるすぐれて巧みな成語化であると言ってよいと思います。p.37

〈南無阿弥陀仏〉を文法する。インドの言葉を繋げて中国でできた不思議な言葉。

ちなみに本願寺派や高田派では、「ナモアミダブツ」と言われています。ナムではなくナモ。これは、インドのナモーに近い発音ですが、親鸞聖人の頃にはナモと言うほうが多かったようです。p.38

 ナムは漢文的。ナモは梵語的。

「帰命無量寿如来、南無不可思議光(という名の仏)は」という主語になり、次の「法蔵菩薩因位時」以下の文にかかると読めます。つまり、「正信偈」の主語としての名号本尊が説かれたもの、と解することができるのであります。p.50

 正信偈の〈主語〉とはー。

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