靴と時計

夜も23時をまわると、東京中の宴の参加者は二種類に分かれる。
時計を気にし始める者たちと、時計など見ない者たち。

金曜の夜に時を忘れていられるのは独身者だけに許された特権だ。
酔いつぶれることも、二軒目のバーから友人の部屋に雪崩れ込んで飲み直すことも、そして土曜日の朝には脱ぎ散らかした昨夜の服もそのままに、横で寝ている恋人の脇腹をくすぐって再び激しく抱き合うこともできる。それが在りし日々にだけ許された行いであったと、多くの人は後になって痛いほど思い知る。
家庭を持つ人々はこの週末の予定、例えば子供のバレエの発表会だとか、赤ん坊のお披露目に着せる一張羅だとか、義両親には何を手土産にすべきかだとか、そんなことで頭がいっぱいだ。
彼らはさほど酔いもせず、途中で忘れずにパートナーに電話を入れ、真夜中をまわる前には行儀よく帰路につく。

いつからかどの宴席も、集まる面々のうち半数以上は金曜の夜を真夜中前に切り上げるようになっていた。だらしなく酔いつぶれて介抱される者もいなければ、物陰で熱く見つめ合っていつの間にやら消えてしまう二人もいない。
私たちは安いソーダ割りや甘いだけのカクテルの代わりに、名前のついたソノマのワインや手に入りにくい日本酒を飲み、美しい革の名刺入れと役職を持ち、家庭と仕事について語る。
丸の内で働く彼女はもうエスペランサのチープなウェッジサンダルではなくセルジオ・ロッシのヒールを履き、飛び抜けて出世した彼はパテック・フィリップの時計で時間を確かめる。

春樹を見送ると、あとに残ったのはたったの数人だった。
「小百合も春樹も、飲むと必ず朝まで残っていたくせにね。」
凪子がソファの背に深くもたれかかり口を尖らせ、ため息をついた。
天井を見上げた白い喉が薄暗い照明に浮かび上がる。
それは久しぶりに古い友人たちの集まった夜だった。
昔話に花が咲き、ひとときはあの頃に戻ったような気分になるけれど、三十代も半ばになれば人は時間を忘れることはない。終電前に一人また一人と確実に帰っていく。
皆大人になったのだ。
「あの頃は毎晩、みんなつぶれるまで飲んだのに。あなたもこんなにお酒に弱くなってしまって。」
ジンジャーエールを注文した私を凪子が揶揄った。
しばらく前に離婚した彼女は居を都心に戻し、再びの独身生活を謳歌しているらしい。

テーブルの右半分の三人、啓介と直也と真梨子は、自己最高記録のゴルフのスコアについて盛り上がっている。
凪子は私の側で何杯目かのシャルドネで頰を紅潮させ、他愛のない昔話をしている。
すらりとした身体つきも前髪をかきあげたロングヘアも変わらず、彼女は大学時代の面影を残したまま美しく成熟した女性になった。
恵比寿で貸し切った一軒家での盛大な式に私たちが参加したのは七年前のことだ。新郎の顔も名前も思い出せない。
式の最後には列席者の放った風船が縺れ合いながら空高く舞い上がり消えていった。
「許してよ。六年は頑張ったんだから。偉いと思わない?」
皆に報告しながら彼女は明るく笑った。
変化を経て彼女は幸せそうに見えた。
そう見せているだけかもしれないけれど、私にはそう見えた。
私たちも笑って彼女のグラスにお酒を注いだ。

「もう電車無くなるけど、いいの?」
不意にこちら側に身を乗り出し、啓介は私たち二人を気遣う。
当の私たちは時計を見もしていないのに。
気が優しく心配性なのだ。昔からいつもそうだった。
「今夜はいいの。そのつもりで来たから。」
私は微笑んで返した。

啓介はまだ家庭を持たず、長らく決まった恋人もいない。
働き始めてから出会ったガールフレンドたちとはいつも一年程度で疎遠になるのだとか、一人暮らしの目黒のマンションはもう二度更新したのだとか。
凪子の結婚式の二次会の後、数人で彼の行きつけのバーに行き、さらにそのあと彼の部屋に転がり込んで飲み直し始発まで雑魚寝をした。
「まるで学生の頃みたいね。」
などと言いながら。
彼は毛布の下で密かに私の手を握った。
昨日のことのようだけれど、考えてみればそれももう七年も昔のことだ。
「大学の時のあの彼女が忘れられないんだ?」
冗談混じりに誰かに指摘された啓介は、肯定とも否定ともつかない曖昧な返事をしていた。

かつての男の子たちはスーツ姿になり「俺たちの元カノはもう全員結婚したんだ」と笑い合う。
かつての女の子たちはそれぞれに頼れるパートナーを得て強くなり、もしくはパートナーに頼ることなしに一人で強くなる術を身につけ、もう真夜中に泣いて誰かに電話をすることもなくなった。


この夜、凪子は私にこんな話をした。

「ねえ。私ね。
上京してきたときね、全然お金が無かったんだよね。
父は進学に反対していたから嫌がらせみたいに一円もお金を出さなかったし、それで母が学費を工面してくれたけど、新生活の資金が足りなくてね。
だから私、学校が始まったときにすでにアルバイトを掛け持ちしていて。疲れて講義中に居眠りしちゃったりしてた。
安くて古い木造アパートの部屋で、引っ越してきてすぐはカーテンも無くてさ。カーテンって意外と高いんだよね。着替えようとしたら窓から丸見えでしょう。仕方ないから近所のスーパーから段ボールをもらってきて、広げて窓に貼っていたの。もう、ほんと笑えないくらい貧乏で。
毛布も足りなくて、あんまり寒いからコートを着て震えて寝ていたし。ご飯もお腹いっぱい食べられなくて。
友達とファミレスにさえ行けないから、もうお金持ちのサラリーマンと適当に付き合っちゃおうかなあって考えたりもしたけど、結局好きになったのは同じようにお金がない大学生の男の子だったんだよね。
ほら、覚えてるかな。私が卒業まで付き合っていた彼。一度会わせたことがあったよね。
彼、今頃どうしてるんだろうな。
学校も違ってたし繋がってないから、死んでいてもわからないけど。
彼の実家は大分だったんだけど、お母さんがね、お米や野菜をいっぱい送ってくるのよ。でも彼は料理なんかできやしないから私の部屋に持ってきて、それで一口コンロの狭いキッチンで一緒にご飯を作ったの。
調味料も少ししかないし、たいしたものは作れなかったけど。
小さな折りたたみのテーブルを出して、そこに新宿のフラン・フランで奮発して買った可愛らしい食器を並べて。
おままごとみたいだった。

あの頃にもしあの彼の子供ができていたら、私、今頃どうしていたかなって考えるの。
大学を途中で辞めて、産んで子育てしていたかなって。彼には大学を出て欲しいし、パート勤めしながら育てていたかもしれない。
生活に疲れながら二人くらい産んだかもね。それでも幸せだったかも。
それって今の私とはだいぶ違う人生だよね。

今ね、私、仕事もうまくいってるし、まあ離婚だとかたいへんだったけど、久しぶりの独り身も楽しくて悪くない日々だなって思っているの。
強がりじゃなくて本当に。
マンションも自分で買って、最近ちょっと逢っている人もいるし。
昔は手が届かなかったような服も靴も揃えて、お気に入りのインテリアの部屋で気ままに過ごして、好きなときに好きな人たちと会って美味しいものを食べて。
深夜まで遊んでも朝帰りしても、誰にも何も言われない。
しかも今はお金だってある。
自由に楽しく生きてるって思ってる。笑っちゃうくらいに何も不自由ないの。

でもね、時々あのアパートが無性に恋しくなるときがあるのよ。
大学の近所の、ぼろくて安いアパート。
まだ若い私と、若い彼とで一緒に過ごしたあの部屋とね、あの日々が懐かしくて泣きそうになるときがあるの。
お金がなくて、行くところもなくて、二人で週末にただ繰り返し抱き合ったりテレビを見たりしてだらだらと過ごしたこととか。
コンビニで買ってきたアイスが唯一の贅沢で、一枚の毛布にくるまってくっついて食べさせあったりしたのよ。
それで夜中に急に桜が見たくなって、近所の公園に行って二時間くらいベンチでお花見したこととか。
懐かしくてね。
そんなこと思い出しても、どうしようもないんだけどね。

別れて縁が途切れた人たちって、今頃どうしてるんだろう。
時々思うのよ。
もう二度と会うこともなくて、どこでどうしているかも知る術が無いなら、私にとってその人たちは死んでいるも同じよね。
あんなに一緒にいたのに、もう死んでいるも同じっておかしくない?
そう思うと胸が苦しくなるの。
どうしようもないんだけどね。
もう、どうしようもないんだけど。」

店員がやってきて、空になった幾つものグラスを黙ってさげていった。
壁際の青い水槽に魚たちが閉じ込められ泳いでいる。


時間は流れる。
流れていった。
塞きとめることも、逆らうこともできない流れだ。
途方も無い時間が、もう戻らない年月が流れ去った。
月日は轟々とうねり流れた。
振り返ったときにそう気がつくのだ。
その音がなぜ私たちには聞こえなかったのか?

そうして時は過ぎ去り、いつの間にかあまりにも多くのことが、その頃すぐ側にいた人たちが遠くなった。


その日、私たちは朝焼けが訪れる前に通りでタクシーを拾い、それぞれに手を振りあって別れた。
次に会うときまで、どうか皆元気で。





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藤本萌々子

短編小説、散文、詩「考える小さな鳥」

短編小説、散文、詩のようなもの。

コメント1件

藤本萌々子様
はじめまして。面白かったです。消化試合みたいな生き方をしているので色々と思うところがありました。
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