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名前のない二人





私は静かな砂浜に打ち上げられていました。

長い夢から覚めたような気分でした。

よろめきながら立ち上がりあたりを見回すと、そこは静かな海辺でした。
白く輝く浜が遠くまで伸びて、人影は無く風は凪ぎ、穏やかに波が寄せています。陽射しは眩しく、さりとて灼けつくほどでもなく。
椰子の木が濃い木陰を投げるその根本には、落ちた実が2つ3つ転がっていました。
足元に目をやると珊瑚のかけらや乳白色の貝がらが幾つか。細かな砂は心地よい太陽の熱を帯びており、私はその砂を裸足の足で踏みしめ空を仰ぎました。
高く浮かぶ薄い雲がゆっくりと流れていきます。


私は、名前を失ったらしい、と気がつきました。

名前だけでなく私は、自己に関する属性、続柄の全てを失っているようでした。
いったい自分はどこから来たのか。どこで生まれ、どこで育ったのか。年齢は幾つであるのか、家族はいるのか、いないのか。大人であるのか、子供であるのか。どのような性格の人間で、どのような過去を背負っているのか。
つまり私自身が何者であるかに関わる全ての事柄について何一つ思い出せないのでした。

私はたった一人で孤島に立っていました。
頭の中ではどうしてか、この島には街も村も無いであろうことに気がついていました。おそらくこの場所には他に人がいないであろうこと。それどころか、この世界にこの瞬間、どこにも人の街というものすら存在しないだろう、と。そこは他者のいない世界でした。

自分の身体を目で確かめ、ぎこちなく手足を動かしてみました。衣服を何一つ身につけない私の身体を、高く上がった太陽の光がくまなく照らし出します。

少なくとも私は人間であり、女であるようでした。老いてもおらず若すぎてもいない、ちょうど成長し尽くし完成し、この自分の身体であることに馴染んだ年齢のように思えました。

この身体が果たして美しいのか醜いのかすら確かめる術もなく、思えば他の者たちのいない世界に美醜というものが存在するのかさえ定かではなく、私はただ「生きて動いている人間の女」というもののほか、やはり自分を説明する言葉を持たないのでした。



ふと何か予感のようなものを感じ振り返りました。すると、今しがた私が横たわっていたその同じ場所に一人の人間が倒れ伏していました。
布の一枚もまとわない肌色の塊。それは人間の男である、ということ以外に何も情報を持たない生き物でした。

「彼」は波打ち際にうつ伏せに倒れ、濡れるがままになっていました。駆け寄って傍に跪いた私は、はやる動悸を抑えながらその男の手をとり重い身体を仰向け、裸の広い胸に耳を押し当てました。髪は冷たく濡れ瞼は閉じられていましたが、頬には薄っすらと血潮がさしています。掌はあたたかく僅かに汗ばみ、胸郭は静かな呼吸で上下していました。

男の息のあることに深く安堵して、私はそのまま気が抜けたように、しかし握った手を離さないままにその傍らに身を寄せていました。

このひとは誰なのだろう。

私は眠り続ける男を眺めながら考えました。

その顔も身体も慣れ親しんだものであるようで、眺めていると懐かしい気持ちが湧き上がります。

私はかつてこの指を、この肩を噛んだことがある、と感じました。

髪の手触りも肌の匂いも、まだ発せられない声までも、彼の隅々までを私はよく知っているという確信がありました。

そしてこの男も、私の肌も声も、全てを知り尽くしているだろうことも。

私たちは互いに惹かれあい愛しあう仲であることは、疑いようもないのです。

しかしその名も知らぬ男と私とがどういった関係にあるのか、この男がいったいどこからやってきたのか、どのような気性をしていて年は幾つなのかなどは、全くわからないのでした。

私は眠る男の傍に留まりました。

いつしか陽はゆっくりと落ち海辺の花々は頭を垂れました。
椰子の木陰も長く伸び薄れゆき、空の色が燃える緋と群青に移る中、波だけは穏やかに変わらないまま砂浜を洗いました。

私は静かな気持ちで彼の手を握り続けました。それは遠い昔に還るような、私たちが産まれるよりもはるか昔に還るような気持ちでした。

属性の無い自分が属性の無い男を愛する気持ちを、ただ、言葉もなく味わっていました。

それは私自身の骨組みに関わる、何かとても単純で奥深いものに繋がっていました。

男が目を開けました。そして私の目をまっすぐに見つめました。





「目が覚めた?」

ベッドに横たわった私の顔を覗きこみ、彼が尋ねました。

彼はすぐ傍で私の手をとって、裸の半身を起こしていました。

私はまだ靄の中にいるようなぼやけた頭をめぐらせて、ああ、私は夢から覚めたのだ、と思い小さく頷きました。

窓の外はしんとしていました。カーテンの隙間は仄暗く、まだ夜が明けない気配が漂っています。部屋は薄寒いけれど、ベッドは二人の体温であたたかでした。
彼は枕元の時計を確かめると、慎重な、そして親密な仕草で私に毛布をかけ直しました。

「まだ四時だから、もう少し眠ろうか。」

見慣れた天井、見慣れた家具たちが薄明かりの中に朧げに浮かび、この部屋より外の時間は止まったようでした。

私は掠れた声で拙く喋り始めました。今しがた見たもの、感じたことを、この人に知らせなければと思ったのです。

「夢を見たの。」

「そう。どんな?」

「私、海にいたの。

 あなたと。

 二人とも裸で。

 あなたは眠ってた。」

「そう。」

彼は小さな動物を撫でるほどに優しく、私の髪を撫でました。

「私、自分のことも何もわからなくて、あなたのことも何もわからなかった。

 でも、それがあなただってことと、私たち他人じゃないってことだけはわかったの。」

私は表すべき言葉の足りないもどかしさにしばらく黙り、そして付け加えました。

「夢の中で私、名前の無い一人きりの女の人になってしまって。

 あなたも名前の無い、一人きりの男の人になっていたの。

 不思議だった。」

彼は微笑みました。

「それはいつもの僕らと同じだね。

 僕らには名前も何もないときがあるけれど、愛されてるのも愛してるのもわかるさ。」


私は彼の言葉を理解しました。

遠い海辺で味わった感覚、あの懐かしい感覚は、夢から覚めた今も私の奥深くにありました。

半分は眠たく半分は可笑しい気分でいる私を、広い胸と強い腕で抱きかかえて、彼は「眠ろう」と言いました。
私たちは夜明けまでの短い間、また身を寄せ合って目を閉じました。




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