名残 ♯2

 社長がこの工場をつくったのは、三十になるかならないかの頃だ。当時、東京の下町には町工場がぼこぼことできて、働くには困らなかった。
 たまたま遠い親戚がヘラシボリの工場をやっていて、そこで何年か働いた。とにかく、モノをつくって、つくって、つくった時代だった。ヘラシボリ、なんて今の若ものは知らない。何年か前、ボロボロになった電話帳を新しくしようと娘にパソコンで打ってもらった、そのうちのひとつに昔からの付き合いの工場があったのだが、それを指差しながらヘラシボリってなに、とのんびり聞かれて社長は唖然とした。
 「お前、ヘラシボリも知らないのか」
 「知らないよ、ヘラシボリって。マメシボリみたい」
 「あれはなあ、ヘラでアルミを絞るのさ。アルミの板を固定しておいて、くるくる回しながら少しずつ曲げていくんだよ」
 娘は少し首をかしげて黙っていたが、次に口を開くと、
 「なにに使うの?」
 と言った。
 「電灯のカサとか、機械の部品とか金具とか……、あの頃は何でも作ったもんだよ」
 「あのころ」
 「父さんが東京にいた頃。戦争の後」
 「ふうん」
 判ってねえな、と社長はかすかに腹立たしく思ったが、判れというのが無理だろうな、とも感じた。ああいったことは、見ないとわからないし、身体で覚えるしかない。……轆轤のように回る材料にそおっとヘラを当てていく。ちょっとした力加減でアルミはゆがみ、かたちを変えていく。
 漏斗みたいな照明の部品をよくつくったっけ。ヘラシボリは、見ているだけでは上達しようがない。体重のかけ方、手首のひねり方、加減の仕方、それこそ怒鳴られながらぴっぱたかれながら、失敗して覚えていくしかなかった。
 アルミの、鼻の奥が粉くさくなるような匂い、機械がブンブンうなる音、ヘラを握った感触、機械が止まった後もしばらくは震えたままの腕、あんなのは忘れようたって忘れられない。
 今は、手絞りをしている工場も恐ろしく減り、大量生産の既製品は皆機械が型を抜く。あの頃働いていた仲間は大方引退し、今は、コンピュータの画面とそれにつながった機械がアルミを抜いていくのだ。人間がやるのは、数字を画面に打ち込むこと、材料をセットすること、ボタンを押すことだ。親方と、鉛筆を片手に広げた図面をにらんでいる奴なんて、もう、どこを探してもいやしないのかもしれない。
 ……コイツだってああやって身体を使って働いたことがねえんだろう、と、ノートパソコンを叩いている娘の額の辺りを眺めながら思う。社長は、他に働き方を知らなかった。ああして働く他、どうやって食っていいかわからなかったし、今も判らない。

 あの日、仕事の話を持ってきたのは、昔から付き合いがあった玄さんという人だった。
 「おい、ちょっと話があるんだ、仕事が終わったら一杯いこうや」
 夕方、玄さんが日に焼けた顔をひょいっと扉からのぞかせて、親方の方にちょっと頭を下げるようにしてから怒鳴るように言った。声が大きいのは、その当時そこらで働いていた皆がそうで、一日中、機械がブンブン回る中で仕事をしているのだから、自然にそうなってしまうのだった。
 「いいですけど、何か」
 怒鳴り返した社長の言葉に、玄さんはその場では答えずに手をヒラヒラ振って出て行ってしまった。親方の方を見ると、いいから行ってこい、というふうに、こちらも面倒くさそうに手を振るしぐさをしただけだった。
 その夜、仕事を終えた社長は、玄さんに連れられて川向こうの料亭に行った。
 いつもは、その辺の屋台に毛が生えたような飯屋兼飲み屋に行くのだったからびっくりはしたが、目の前まで行ってみると、料亭と言っても小料理屋がそういう看板を出しているだけのことで、狭い路地に犇くように立つ間口の狭い店の一軒だった。大またで歩くと階段がギイギイきしみ、二階に上ると開け放された窓から川の匂いが漂っていた。懐かしい匂いだ、と社長は無意識のうちに思った。アルミの匂いには鼻が馬鹿になって気づかないが、こんな匂いだけはする。
 どかりと腰をおろした玄さんの後に続いて社長も胡坐をかいて座り、ぼんやりと窓を眺めた。木の窓枠はいい加減ささくれ立っていて、開け閉てするとガタガタと音がしそうにくたびれている。
 「ところで、仕事してみる気いはないかい」
 直せばいいのにな……、窓枠を見つめて、ぼんやりとそんなことを思っていたものだから、玄さんが言ったことが頭に染み込むまで少しかかった。
 「仕事って、毎日してますよ」
 我ながら間の抜けた返事をしたもんだ、と思ったのは随分後になってから、何度となくその時のやり取りを思い出すようになってからで、玄さんだってそんな答えは想像していなかったに違いない、一旦むっと押し黙って、次の瞬間呆れたように笑い、「いやそうじゃあなくってさ、自分の仕事さ」と、言った。
 なんでも、大手の軽金属加工会社が仕事を請けるところを探しているのだという。軽金属、という言葉自体耳慣れなくて、社長は聞き返したが、「アルミやステンのことさあ。毎日扱っているんだ、慣れたもんだろ」と事もなく言う玄さんに気圧されて他には何もいえなかった。仕事はある、とにかく人が足りない、文句を言わず仕事をさばいてくれるなら多少のことは融通を利かせる、ということらしい。
 「そんなうまい話には裏があるンじゃないですか」
 と、まだ若かった社長は言ったが、それは本当にそう思ったわけではなく、こういうときにはなにか言わなきゃいけない、とひねり出した言葉なのかもしれなかった。
 「裏なんてあるもんか。ただ、仕事はきついし納期は厳しい」
 という返事を、その時はまだ「社長」でなかった男は、頷いて少し考えるふりをした。
 差し出された杯を受ける手が緊張のせいかぶるぶる震えて日本酒が波立ったが、それに気づかないふりをしてぱっと煽ってから、「でも玄さん、そうすると今の親方ンとこからは出て行かなきゃいけない」と言った。
 「そうさあ。でも、住むところも用意するさ。職人だろ、そんなことは何でもないだろうよ」細かいことを気にするな、というように目を細めてこちらを見やった玄さんに向かって、
 「いやそうじゃなくってさ、俺、やるなら会社にしたいのさ。社長になるよ」と言った。
 玄さんは何か言いかけていた口を閉じるのも忘れてしばらくぽかんと社長の顔を見つめて、「……社長って、何で社長になりたいんだい。ピンの職人が嫌だっていうのかい。経営がしたいのかい」と言った。
 「いや経営がしたいんじゃないですよ。俺はいつまでだって職人だし」
 「人に使われるのが嫌だってえのかい」
 「そうじゃないですよ。でも、俺は社長になりたいんだ。自分だけじゃなくってさ、皆で夢見たいンんだよ」
 と、押し込むように言った。未だに、どうしてそんなことが口から出たのかは分からない。でも、何かに押し出されるようにそれだけ言ってしまうと、社長はまたぐっと酒を飲んだ。やけに、喉が渇いていた。
 玄さんはしばらくむにゃむにゃと言って、その時はそれで終わりになったが、結局は社長に協力してくれた。
 親方には最初から話が通っていたのだろう、働き手が一人いなくなるのだから痛かったはずだが、すんなりと許してくれた。
 元請けの会社に話をつけ、資本関係なしで社長個人の有限会社を立ち上げさせてくれたのは玄さんだ。有り難かった。まあ、会社、と言っても社員は社長と妻だけの始まりだった。

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