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江之浦へ

 杉本さんがあのへんの蜜柑山を買ったらしいよ、と聞いたのはもう12年ほど前のことで、その時わたしは知り合いの、まさに相模湾を見下ろす蜜柑山のアトリエにいた。

 杉本さんは杉本博司さんのことで、日本で一番といってもいいほど影響力のある現代美術家。もともとは写真家だったのだろうし、今も彼の写真作品はとてもとても素敵だけれど、今はその枠組みには当てはまらない。美術家、と呼ぶのでさえ、十分でない気がする。建築や舞台、彫刻まで手掛け、アーティストであると同時にキュレーターでもある。デュシャンのような、千利休のような。

 わたしは、相模の海を見ながら育ったので、あのあたりの海はとにかく懐かしい。穏やかでのんびりしていて、でも岩肌にあたる波はきっぱりとしている。山の稜線と波のかたち。うす曇りの日の優しい水平線。
 杉本さんの作品に、「海景」というシリーズがあり、世界各地の水平線をモノクロで収めたものだが、わたしはそれを見るたび、あの、よく知った海を思い出す。そして、そのことこそが、分かりやすく芸術の普遍的なところだと思うのだ。シンプルで美しい、具象をふりきった抽象化。

 そんな杉本さんが、自分でつくった美術館がその蜜柑山にとうとうできて、名前を「江之浦測候所」という。どういう場所なのかはご本人の説明を聞いていただくとして、(https://www.odawara-af.com/ja/enoura/) そこにようやく行ってきた。本当に素晴らしい素晴らしい場所だった。
 おそらく杉本さんがこの場所に出会ったこと自体が奇跡のような運命のようなことなのだと思う。江之浦は、天下の名城小田原城に程近いが、秀吉が北条攻めのときに、同道した千利休に銘じてつくらせた茶室がかつてあって、利休はここで初めて竹花入をつかったのだという。花は野にあるように。そこから連綿と続く日本の文化、それを守り育てていく場所が、杉本さんには運命のように、ここなのだと思う。
 海を見下ろす広場には光学ガラスでつくられた能舞台があり、まさに茶で迎えて能でもてなす極めて美しいすがたを、この場所で自然に現そうというのだろうか。測候所というのは、観測する場所であるのと同時に、宇宙の中の自分の位置を確認するところだ。昇る太陽が道を示すとき、わたしたちもまた、同時に指し示されているのだ。

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