名残 #3

 その時、社長はこの町に移り住んできた。
 生まれたのは、東京の下町だった。今はもう埋め立てられ海は遠くなったが、そのころはいつでも潮の香りがした。子どもの時分は、よ
く海辺に遊びに行ったし、今では誰も信じないが、その頃は浜辺で海苔が伸ばし干されていて、風でひらひら飛んでくるそれを追いかけて
つかまえては食べたりしたのだ。
 だから始めてこの町に来た時、その土地にはその土地の匂いがするんだ、ということを社長は初めて知った。ここは少し湿った匂いがす
る。
東京と比べやけに静かだと感じたが、隣町に海があり、後ろに山があるおかげで気候は温暖だった。寒がりの社長にはありがたかったが、
しかしそれは後から思った話で、その時はそんなことを感じている暇もないうちに、とにかくがむしゃらに働いた。
 間借り、というかたちで、元請けの会社が建てたばかりの新しい工場のすみっこに小さな事務所をもらい看板を出した。事務机がひとつ
と、電話を一本引いたきりで、溶接のと、プレスのと、小さな機械は貸してもらう約束だった。
 予告されたことではあったが、仕事は途切れることはなく納期はいつもぎりぎりだった。土曜も日曜もなく、ただ働くためだけに食べて
、寝た。トラックで運ばれてくる長い長いアルミを、切断し、加工し、商品にしていった。社長が機械の前に立ち、妻が作業服に三角巾を
かぶって手元で手伝いをした。納品するトラックさえ足りなくて、妻が月末の請求書を五キロ先の本社まで走って届けに行ったこともある

 あの時は最初は本当に苦しかった、と、今も思い出したように妻が言うことがある。息が切れて、足が重くて、もう本当にダメだ、と何
度思ったか。
 「それでも、走り続けていたら、ある時から苦しくなくなって、このままどこへでも走っていける、と思ったのよ。不思議だけれど」
 社長はその話を聞くたび、俺もあの頃はどこまででも走っていける、と思っていた、と思う。
 身体はたしかにきつかった。いつも仕事が終わるとキリンの小瓶だけが楽しみで、食べるだけ食べて、泥のように眠った。でも、どれだ
け働いても大丈夫だった。それは本当だった。
 社長が他からも「社長」と呼ばれるようになったのは丁度そのころだ。
 少しずつ機械を買い、人を増やし、パートを雇った。「工場」としての体裁が整うようになると、じわじわと仕事の種類も増えていった
。切削だけだったラインにプレスと溶接が加わり、元請の工場からパレットで届くアルミをさばいていった。小物ばかりやっていたのが、
工事現場の吊足場と住宅用のサッシを任されるようになり、それも出来上がった端からどんどん出荷されていった。軽くて錆びないアルミ
はあのころ、本当にもてはやされたのだ。
 当時、仕事の合間に背を伸ばすと、遠く向こうのラインで皮膜処理をされるアルミが吊るされているのが見えた。三メートルほども長さ
のあるアルミの長い棒が、ピンと張られた経糸のように整然と吊るされ、機械に引かれ移動していくのだが、それを見るといつも、社長は
ゾクっとした。サッシになる前のアルミは薄銅色に光っている。それは神々しいほどで、あそこでああやって光っているものを俺たちが世
の中に出していくのだ、という何か大きい気持ちの固まりが、ビリッと身体を通っていくのだった。

 弟がやってきたのは、そうやって、何とか普通に食っていけるようになってしばらく経ってからのことだ。

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