【8月15日】「フォークボールの神様」杉下茂さんの戦争体験



今日、8月15日は「終戦記念日」。
阪神甲子園球場での夏の甲子園大会では正午に合わせ、試合中でも恒例となった、戦没者への黙とうが捧げられました。

2020年8月の東京新聞に、中日ドラゴンズのエースだった杉下茂さんのインタビュー記事が掲載されていたのを見つけました。

現在、御年96歳、まさに生きるレジェンドですが、戦争体験について語っています。

杉下茂さんの戦争についての経験や思いは、初めて聞く話ばかりでした。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/48776
「戦争は人間の未来を奪う」 フォークの神様・杉下茂さん(94)がひ孫世代に伝えたいこと:東京新聞 TOKYO Web
15日に日本は戦後75年を迎える。戦争により、310万人が命を落としたといわれ、国土は焦土と化したが、その体験を語れる人は高齢化が進み...
www.tokyo-np.co.jp

1925年生まれの杉下茂さんは、旧帝京商業高校(現在の帝京高校)の野球部に所属していましたが、1944年、「学徒出陣」で中国・上海への出征を命じられ、20歳で終戦を迎え、そのまま上海で捕虜として収容されました。
生死と隣り合わせの収容所生活を支えたのは、スポーツだったと言います。

「野球だけでなく、バレーボールやバスケットボールもやった。いつ死ぬかわからない、明日が見えない、つらい捕虜生活をスポーツが救ってくれた。スポーツは最後まであきらめずにプレーする。私たちも希望を捨てずに生きようと思ったんだ。結局、私は3カ月で帰国できたのだが、スポーツに助けられたといってもいい」

杉下さんは生き延びて、1946年、日本への帰国が叶います。
いすゞ自動車の野球部に入り、エースとして都市対抗野球で活躍、その後、東京六大学野球リーグの復活と共に、明治大学旧制専門部に入り、さらに1949年、旧帝京商業高校(現在の帝京高校)野球部の恩師である天知茂監督が率いる中日ドラゴンズに入団します。
その後、魔球・フォークボールを操り、「フォークの神様」と呼ばれ、1954年には中日を球団史上初の日本一に導く活躍でシーズンと日本シリーズの両方でMVP、沢村賞は史上最多タイの3回、通算215勝を挙げるなど、プロ野球での活躍は歴史の知るところです。

杉下茂さんはインタビューの最後に「戦争経験者として次の世代に残したい思いを聞かせてください。」と尋ねられて、こう答えた。

「あの戦争では多くの若者が犠牲になった。兄は野球がうまかったから、無事でいたら、私を上回る野球選手になっていたことだろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない。そのためには誰もが意見が言える世の中にしておくことだ。戦争中は上官が突撃しろといったら『ハイ』といって従った。それが特攻や自決につながった。そんなのは間違っている。私はおかしいことをおかしいと言えない空気が悲劇を生んだと思う。誰もが自由に声を挙げられる世の中、『そうじゃない』と批判ができる世の中をいつまでも残してほしいと思っています」

海外では常に戦争状態の国家があり、苦しんでいる人たちがいます。
一方で、日本では野球をプレーしたり、それを観戦したりできます。
改めて、幸せなことだと思いました。

そして、杉下さんの言葉は、スポーツに携わっている若い人たち皆に耳を傾けて欲しい言葉です。

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