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学ぶことはいつだって楽しい


ある一日。

レッスン。

「スクリャービン、楽しくなってきた?」
「まだ楽しくないです!」

というわけで、先生にひとつひとつ教わりながら、なんとか譜読みを進めていく。

今わたしは、わざわざお金を払ってレッスンへ行き、曲作りではなく楽譜の読み方を教わっている。想定外だ。小学校の頃のわたしが今のわたしを見たら笑うだろうな。

でも

「ここは、こういう塊にして読んでいくと、楽に見えてくるよ」

「ここの指番号は、◯◯さんの場合は、こう変えると弾きやすいと思う」

「ここは、この音は見なくてもいいから。ここを眺めて弾いてみると、流れで指は楽譜のとおりに動いていくから大丈夫」

などと、ひとつひとつ噛み砕いてくださるおかげで、ある時「あ、なるほど!」と読めるようになる。自分では到達することのできないところへ導かれた感覚が、なんとも嬉しい!

自分の「知らない」「わからない」「できない」を自覚させられること、それを素直に学びたいと思えること、できるようになりたいと思えること、まだまだ勉強するべきことがたくさんあるなとワクワクできること、ありがとう。

レッスン終わりには、

「モーツァルト弾いてから終わりにしようか」

と、言われ、モーツァルトを弾く。
そう、今日はモーツァルトの誕生日。

1回弾いた後、「僕も楽しくなってきたわ」と、演奏に合わせて隣で伴奏を付けてくださった。スクリャービンの後のモーツァルトは、なんだかお風呂に入って歯を磨いたかのようにすっきりした気持ちになった。

レッスンが終わると、先生は「このあとは、大学に戻って試験の伴奏だから」と言って、大学へ向かって行った。忙しいな。

普段わたしは、仕事を「これは手を抜いていい仕事」と「これは絶対に手を抜いてはいけない仕事」と区別して取り組んでいる。先生にもそういう区別があるのなら、きっとわたしのレッスンは前者なのだろうと思う。だってわたしの将来を背負っているわけではないし、優先度だって緊急度だって低いし、それに実際にとても気楽で楽しそう。

もちろんそれは、雑に教えられているから不満ということではなくて、なんだろうな、「ピアノの指導者のプロ」を見せられている感じがなく、あくまで「ピアノ弾きのプロ」「ピアノが楽しいことを共有する相手」としての立場で関わってくださっている感じがあるというか。

「ここはちょっとゆっくりにしたいよね、わかる、じゃあもうそうやって弾こうか」

はじめはタイピングとの違いがわからなかったモーツァルトにも、感情が乗るようになった。子音をちゃんとはっきり聞かせることと、文章ではなく単語単語で歌うことを意識してくれればいいよ、あとは自由に歌ったら?という先生の言葉で、途端に楽しくなった。

おお、音楽ができたぞ。

そういえば、2020年の1月27日は、モーツァルトの故郷に旅行していたのでした。


お誕生日おめでとう、モーツァルト。

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