029:スマートフォンの行為者性とあらたな意識の流れ

ヒトとスマートフォンとをひとつの関係として考え、その関係が成立すると行為者性が生じる。それはヒト単体でもないし、スマートフォン単体でもない、それらが重なり合ってはじめて行為者性が生じる。では、ヒトの行為は、スマートフォンともにある。タッチパネルというハードウェアが可能にした指の動きがあり、iPhoneのホームボタンが可能にした指の動きがあるが、それらはモノのアフォーダンスであると同時に、ヒトの意図でもある。モノのアフォーダンスを「意図」に置き換えるのではなく、ヒトの意図とモノのアフォーダンスとの境目が曖昧になると考えた方がいい。

ここではヒトの行為にスマートフォンが連動しているだけではない。スマートフォンの「行為」にも、ヒトが連動している。このことを言語化したのが、ホームボタンをなくして、ボタンのオンオフという最小行為をジェスチャーに置き換えたiPhoneXのデザインを言語化した「Designing Fluid Interfaces」ではないだろうか。ホームボタンを失った指は、ディスプレイの上での行為を引き伸ばされ、アニメーションが指に連動し、指がアニメーションに連動する。このオンオフから引き伸ばされた行為は、思考の流れとパラレルになっていく。思考に延長してアニメーションがあり、アニメーションの延長して思考があり、そこに行為の流れが重なる。それは、オンオフではなく、流れのなかで引き返すことができる思考と行為の流れになっている。

ウィリアム・ジェイムスの「意識の流れ」に沿うかたちで、アニメーションが表示され、行為が遂行される。ここにあるのは、石斧からはじまる道具そのものである。スマートフォンのディスプレイが、ヒトの思考と行為とともにありつつ、自律したアニメーションを表示する。そこでのディスプレイはインターフェイスではなく、モノのサーフェイスのように自律的な存在になっている。しかし、それは、ハードウェアのみで成立するモノではなく、ソフトウェアとの関係ではじめて成立するモノであり、それはまだ石斧の段階のプリミティブな段階にあるモノだといえる。ハードウェアとソフトウェアとの関係をそれ自体が持つために、その関係においてスマートフォンは自律的な行為者性をもつものとなっている。それは石斧と異なり、ヒトがスマートフォンとの関係に入る前から、そこにはスマートフォンの行為者性がある。それは、ひとつの意識の流れであり、この意識の流れが、ヒトの意識の流れと合流して、あらたな意識の流れをつくっていく。

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