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070:多重化するフィードバックを受け止め続けるマテリアルをつくる

ucnvの作品を考えるために,《Turpentine》で配布されていたハンドアウトを改めて読んでいた.​そこには次のようなテキストがあった.

グリッチとは,意図されておらず予測されていなかった状態が再生装置によって再生されることである.

「再生装置」があるということは,グリッチは「ビデオ」のような「アナログ」的な要素を持つのかもしれない.デジタル/アナログの二項対立ではなく,デジタル以後のデータに「自由」を与えるというか,データそのものを捉える試みであり,その意味でグリッチは河合政之が『リフレクション』で考察している「ヴィデオ・アート」が示す情報以前のデータを捉える試みと重なり合うと考えられる.

河合はビデオの電子映像を「ウェーヴの連続であるフローという形式をとることは,いかなる意味を持つのであろうか.フローであるとは,電流が一定時間流れ続け,データが流され続ける限りで存在するということである(p.33)」と指摘している.そのため,電子映像は必ず「再生装置」を必要とする.映画も映写機を必要とするが,映写機がなくてもフィルムは「映像」をそこに定着させている.しかし,ビデオのようなアナログの電子映像も,コンピュータで処理されたデジタルの電子映像も,ともにデータが再生される装置がなければ,そこには映像ではなく,データしかない.

このフローにおける電子映像と映画の存在論的な差異がもっとも明確にあらわれるのは,編集の場面においてである.映画では,画像はフィルム上にすでに発現し物理的に定着されているので,それをあつかえばよい.だが電子映像では,テープを使用したリニアな編集においても,コンピューターを使用したノンリニアな編集においても,少なくとも完全にコントロールされた編集をおこなおうとするなら,まずデータを時間的に画像として発現しなければならない.データそのままではそれは映像として存在しているとはいえないのであって,それが時間をともなってフローとなり,連続的な画像へと変換されて初めて,コントロール可能な対象としてあつかい得るのである.p.34
河合政之『リフレクション』

データはコントロール可能な対象となるために映像へと変換される.アナログに比べ,デジタルではコントロールの精度が格段に上がっている.レフ・マノヴィチはコントールの精度が向上し,ノイズが可能な限り排除されたデータを「オブジェクト」と呼ぶ.河合はマノヴィッチの「オブジェクト」を「統計的にプログラムされ計算可能な未来に他ならない(p.101)として批判する.そして,「アナログなデータの逸脱へと向かうフィードバック,そしてそこにあらわれる脱情報化への眼差し(p.116)」を求める.

ucnvの作品はデジタルデータの精確なコントロールを使いながら,河合が求めたデータの逸脱へと向かうフィードバック」に向かっていると考えられる.ucnvが用いる「グリッチ」は,マノヴィッチが「オブジェクト」として扱いやすい存在にした「データ」に「ノイズ」を招き入れ,映像として正常の状態から逸脱していく.

ucnvはIAMASでの個展「Volatile」で「作品について」で次のように書いている.

昨年の展示で,ある人から「この作品はどうやって/どこに定着しているのか?」と問われた.そのときうまく答えられなかったその問いがどこかに引っかかったまま,ある.今回の展示タイトルを “Volatile”,すなわち「揮発性」としたことは,その定着,および定着に必要な支持体という対象をめぐる思索と無関係ではない.

ucnvは正常の映像とグリッチした映像とを並置して見せる手法によって,グリッチが「データ」と「見る​👀」​とをダイレクトに接合するサーフェイスであることを示している.そこでは,映像が映像としてディスプレイに「定着」した状態を逸脱している.ucnvは《Turpentine》で配布されていたハンドアウトで,この逸脱の状態を説明している.

今回用いるのは,ある差分フレームをコピーペーストし何度も繰り返すという動画グリッチの手法である.そのとき,本来の前後のフレームと切り離された結果そこに何が映っていたか判別できなくなり,意図されていなかった映像が生成される.差分が繰り返されることによって,あるピクセルは延々と2ピクセル右に移動し続け延々と青みがかかることになるだろう.そこには,オリジナルの動画に含まれていなかったピクセルの移動と色が出現している.ここでは,シンプルなデータモッシングにあった,元の図像が崩れるといったことさえない.初見ではその映像がグリッチによるものかもわからないだろう.

オリジナルにはない「ピクセルの移動と色」が示すのはもうひとつのオリジナルのなのだろうか? 正常な動画と並置されたグリッチされた動画を同時に見るとき.オリジナルとグリッチを見ていると同時に,ふたつともオリジナルを見ているとも言えるし,コンピュータ的にはどちらも処理できるデータであって,データの差異はあるけれど,情報としての差異はないのかもしれない.河合の言葉で言うと「データそのものによる〈反省〉的な知の可能性が,そこに示されているということである.その可能性は,装置+オペレーターが,フィードバックによって,情報=データ的な「知」ではなく,情報以前のデータへと差し向けられることによってもたらされるだろう(p.98)」と言うことかもしれない.

情報以前のデータとしては存在していないが,「コード処理」が生み出してしまう「ピクセル」は,コンピュータにとっては情報=データ的な「知」かもしれないが,ヒトにとっては「情報以前のデータ」として現れている.ヒトとコンピュータとの複合体とのあいだのインターフェイスであったディスプレイが,コンピュータという「再生装置の無意識」というデータという「バルク」からはみ出てきた「何か」を表示する「サーフェイス」となっているということもかもしれない.だとすれば,ucnvの最近の作品は,オリジナルとグリッチや,正常と異常という分け方の他に,インターフェイスとサーフェイスという分け方で考えることもできるのではないだろうか.

ucnv作品で繰り返される「差分フレーム」は「情報以前のデータ」と言えるだろう.河合はヴィデオアートの分析から,「アナログなデータの逸脱へと向かうフィードバック,そしてそこにあらわれる脱情報化への眼差し」を求めるが,ucnvの作品はデジタル化したデータを再度「アナログ」のように扱うようにしているのかもしれない.それは,〈データと視〉のフィードバックにタッチパネル以後に現れてきている〈データと触〉のフィードバックを入れ込んで,多重化するフィードバックを受け止め続けるひとつのサーフェイスをつくることではなないだろうか.さらに,そのサーフェイスを抽象的な面と考えるのではなく,バルクと接合したひとつの「マテリアル」として考える必要がある.それは,デジタルで離散化している〈データと視〉と〈データと触〉とが接合されて,あたかも連続体のような「マテリアル」なのである.私はその「マテリアル」を,ひとつの「練り物🍥」として考えたいのかもしれない.

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