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015:パーティクル化した環境を強化して,パーティクル化した身体を引っ張り出す

『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』の「第5章:破壊・崩壊・エントロピーの映像的・音響的描写」のなかで,平倉さんが「パーティクル化」ということを言っていた.

平倉 時代が飛びますけど,ブロブ的なものに代わって2000年代に現れてきて,2010年代に過激に誇張されているのが,「パーティクル化」だというふうに僕は考えてるんです.世界はブヨブヨしていなくて,パリパリしている.細かくクリスプに割れるっていうふうになる.一見不定形なものも,すべて計算可能な粒子の挙動でできていて,明晰に割れる.pp.285-286 

これを受けて,石岡さんが次のように言っていた.

石岡 今はピクセルっていうものへの感受性を,全員が持っているってことですよね.この映像自体が無数のドットの連なりであるっていうことをみんなが理解している.そのことによる変化があるあると思う.p.287

映像がパーティクル化したのは,映画に現れる前にコンピュータのディスプレイに現れていて,ヒトの身体は「カーソル」となって,パーティクル化した画面に合わせた匿名的な形態になっていた.そして,スマートフォンになりカーソルがなくなり,画面全体がヒトの行為に滑らかに連動するようになった.パーティクル化した画面全体が「カーソル」となりヒトにジェスチャーを求めるようになった.そして,ヒトの行為はパーティクル化した画面に合わせて矯正されているとしたら,そこにはパーティクル化した行為があり,その先には,パーティクル化した身体があるのではないだろうか.

渡邊さんは『融けるデザイン』で,身体を二つに分けている.

私たちの身体の境界は,生物として手足を持つ人型としての骨格と皮膚までかもしれない.しかし,「生物としての身体」と「知覚原理としての身体」はおそらく少し分けて考えるべきである.そして後者はかなり柔軟にできており,帰属を通じて身体は「拡張可能」と言えるのだ.(p.125)

「知覚原理としての身体」が拡張された結果として,明晰なピクセルに対応した「パーティクル化した身体」が生まれたと考えてみると,VRは,それをそっくりそのままディスプレイに写し取るものだと言えるだろう.しかし,それではカーソルの延長でしかない.いや,カーソルが身体の生々しさを削ぎ落としてディスプレイにヒトを移植したとすれば,そっくりそのまま身体を移植しているVRは,身体変容という点からから考えると後退しているのかもしれない.

生物としての身体の行為をマウスやキーボードやタッチパネルに合わせて矯正して,あたらしい行為を生み出した結果としてのパーティクル化した身体は,普段は生物としての身体にぴったりと重なり合っているため,その存在がどんなものなのかわからない.ぴったり重なっているから,生物としての身体と同じ形態をしていると思ってしまう.しかし,それはヒトの身体と同じ形態しているとは限らないのではないないか? パーティクル化した身体を生物としての身体から引き離してみたい.それが,VRの役割なのではないだろうか.パーティクル化した環境を強化して,拡張した知覚原理としての身体=パーティクル化した身体を引っ張り出すことは可能だろうか.

小鷹研究室の「影に引き寄せられる手」は,「影」を使って,生物としての身体からパーティクル化した身体を引き離したものではないだろうか.私たちの身体には複数の身体があって,そのひとつで,コンピュータ的な体験の集積から生まれたパーティクル化した身体が「光源反転空間」で生まれる影に引き寄せられて,生物としての身体から引き離される.

「影に引き寄せられる手」は,ラバーハンド・イリュージョンという強固なパラダイムの中で,そのパラダイムに翻弄される研究者のうちの "誰か" が,それほど遠くない未来に,それほどの苦労もなく,(巨視的に見れば "確率的" な過 程のなかで)発見されてしかるべきものである(そして実際,小鷹研究室が,1998年から約20年後にそれを発見した).だから,本当の問題はむしろ,なぜラバーハン ド・イリュージョンのような,いかにも原始的とも思える錯覚が(1mAの電流すら必要とされない!!),よりによって,1998年という(人間の歴史もおそらくは終盤戦に差しかかりつつある)世紀末にもなって,はじめて "発見" されることになったのか,という点に移される.そして,個人的には,ラバーハンド・イリュージョンの発見の源流には,20世紀最大の発見の一つであるコンピュータの登場(と,それに伴う 計算機的世界観の内面化)がある,とそのように感じている.
小鷹研究室の各位各論身体論 1

パーティクル化した身体を生物としての身体から引き離しても,なお,その存在を明確に感じれるようにすることが,VRで試していって,考えることなのではないだろうか.


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